地方から見つめる戦後史の〝闇〟(下)

1979年、ぼくは大学を出てNHK入局、
初任地として釧路に配属された。
当時の地方経済は「曲がり角」に差しかかっており、
釧路でいえば、
1977年に200海里の漁業専管水域が定められたことで
北洋漁業の衰退が始まろうとしていた時期であり、
漁業と並ぶ基幹産業である大型酪農も
ちょうどこの年から生産調整が始まったのである。
太平洋海底炭鉱はまだ健在だったものの、
周辺の炭鉱は石炭から石油の「エネルギー革命」の直撃を受け、
すでに多くが1970年前後に閉山となっていた。
むつ小川原開発とほぼ同時期、
1973年に造成された釧白工業団地に立地してくる工場はなく、
工場誘致による地域活性化の夢は挫折していた。
中心商店街の北大通の地盤沈下も深刻になりつつあった。
いま思えば、当時、
日本中の〝地方〟でほぼ同じことが起きていたのである。

ぼくはその後、1984年から4年間東京で勤務し、
バブル経済の狂気を目の当たりにした後、
1988年に北海道に戻ってきた(札幌放送局勤務)。
そのときには、
北海道の経済は既に「曲がり角を曲がった」状態で、
疲弊と衰退は目を覆うばかりだった。
下北半島に「核」がやってくるのはちょうどその頃、
地方の衰退が誰の目にも明らかな1980年代のことである。

◎原子力船むつをめぐる混乱と対立

 これより先、1974年の8月に母港の大湊を〝強行出港〟した
 日本最初の原子力船「むつ」は、
 出航してわずか5日目に放射線洩れを起こし、
 日本中の港から受け入れを拒否され〝漂流〟していた。
 その「むつ」の新しい母港として、
 大湊と同じ青森県むつ市の、
 外洋に面した漁村・関根浜が突然浮上したのは1981年。
 1月1日付けの読売新聞が、
 「むつ新母港に関根浜浮上」と伝え、
 ご丁寧にも「関根浜なら八方丸く」と見出しを打ったのである。
 現地・関根浜の人たちにとっては、まさに寝耳に水だった。
 「むつ」の落ち着き先を決めたい国と、
 〝持参金〟を期待する青森県、青森県漁連、
 市街地に近く漁民の反対が強い大湊は困るといいながら
 原子力船がもたらす経済効果を失いたくなかったむつ市が、
 地元・関根浜の人たちには何の打診もないまま、
 「関根浜なら八方丸く」と水面下で合意していたのである。
 それを読売にリークして、
 元旦の朝刊でハデなアドバルーンをぶち上げたと思しい。

 ※こうしたやり方は、3年後、
  六ヶ所村への核燃立地でほぼそのまま繰り返される。
  1984年1月3日、今度は日本経済新聞が、
  「核燃基地むつ小川原に建設」とスクープしたのである。

 驚いたのは関根浜の人たちで、
 ようやく前浜漁業に目処が立ち生活が安定してきた矢先である。
 当然、地元では漁民による反対運動が始まるが、
 県が先頭に立っての懐柔と分断工作は熾烈なものだった。
 反対派漁民には新たな漁業権をちらつかせて翻意を迫り、
 提示される漁業補償の金額もどんどん膨れ上がっていく。
 それでも反対派が一定数を占め、
 このままでは漁業権放棄決議は難しいと見るや、
 当初の反対姿勢から賛成派に転じていた漁協組合長は、
 漁労に従事した日数の少ない
 周辺地区の住民を新たに正組合員として認め、
 組合員数を水増しして賛成票を増やすという挙に出た。
 (これは水産業協同組合法違反の可能性が強い。)
 県が是正指導をしようとしなかったところから見ても、
 あらかじめ県も承知の出来レース、
 むしろ県が先導したことと見るべきだろう。
 その結果、1983年8月の漁協総会で漁業権放棄が決議された。
 翌'84年1月には、自民党が「むつ廃船」の方針を決めるが、
 関根浜には「むつ」の〝死に場所〟として新母港の建設が進む。

 新母港が完成し「むつ」が入港したのは1988年1月、
 その5年後、「むつ」は廃船とされ、原子炉が撤去された。
 いま関根浜には、その原子炉が保存・展示されているほか、
 「むつ」が開いた核の道とでもいうべきだろうか、
 新たに使用済み核燃料の中間貯蔵施設が建設されている。


◎六ヶ所村・核燃立地をめぐる混乱と対立

 同じ下北半島の六ヶ所村に
 核燃料サイクル基地の建設構想がもちあがったのは、
 自民党が原子力船「むつ」の廃船の方針を打ち出すのと同じ、
 1984年1月のことである。
 前述したように、
 1月3日付けの日本経済新聞(またしても正月だ!)が、
 「核燃基地むつ小川原に建設」とぶち上げたのである。
 4月には電力会社で結成する電事連が青森県に立地を要請、
 遅れて7月に地元・六ヶ所村に同様の申し入れを行なっている。
 これは既に'83年中に、
 国と電事連、青森県のあいだで、
 水面下で基本的な合意ができていたと考えるべきだろう。
 当時、小林庄一郎電事連会長(関西電力)は、
 朝日新聞の取材に答えて次のように語っている。

 「六ヶ所村のむつ小川原の荒涼たる風景は
  関西ではちょっと見られない。
  やっぱりわれわれの
  核燃料サイクル三点セットがまず進出しなければ
  開けるところではないとの認識を持ちました。
  日本の国とは思えないくらいで、
  よく住みついて来られたと思いますね。
  いい地点が本土にも残っていたな、との感じを持ちました」

 都市部の人間が地方を見るときの
 どこか見下げたような視線を感じずにはいられない。
 財界首脳のこうした意識の下で
 六ヶ所村の核燃基地化が始まった事実は記憶すべきだろう。

 核燃料サイクル基地構想をめぐって
 混乱のるつぼにたたき込まれたのは、
 むつ小川原開発のときも賛否で二分された漁村・泊だった。
 漁業権は既に(むつ小川原の時点で)放棄されていたが、
 核燃基地建設のための海域調査には漁協の同意が必要となる。
 調査を受け入れるかどうかをめぐって、
 泊は再び真っ二つになった。
 1986年1月、海域調査受託についての漁協総会が開かれたが、
 核燃推進派の組合長は開会早々流会を宣言した。
 定足数を充たしていないという理由だったが、
 実際には反対派が多数を占めていたからだと言われる。
 組合長退出後に会場に残った組合員は
 出席者と委任状で定足数に達していることを確認、
 改めて総会を開催して組合長を解任し、
 新たに反対派の組合長を選出した。
 泊漁協は二人の組合長が並び立つ異常事態に至ったのである。
 しかし、県は、
 推進派組合長が流会を宣言した後の決議は無効だとして、
 以後も専ら推進派組合長とのみ協議を続けた。
 そして、同年3月、
 機動隊が会場周辺を固めるものものしさのなかで
 再び開かれた漁協総会では、
 推進派組合長が書面議決で多数の賛成を得たとして
 海域調査を受け入れる旨の原稿を読み上げ、すぐに散会した。
 その間、わずか数分で、定足数の確認も行われず、
 書面議決書の現物も示されないままの異常なものであった。
 この書面議決書については、
 推進派が三文判を捺して偽造したとの目撃証言もあるが、
 県はこれを正当なものとして海域調査に踏み切った。
 核燃料サイクル会社の経営母体・日本原燃による海域調査は、
 6月、機動隊が港を封鎖し、
 海上保安庁の巡視船が反対派漁船を蹴散らすなかで強行された。
 巡視船が小さな漁船に体当たりをするように迫るさまは、
 当時「泊沖海戦」と呼ばれるほど激しいものだった。
 
 こうして六ヶ所村では核燃料サイクル基地の建設が始まった。
 賛否両論が真っ向から対立するなかで
 国策が遂行されようとするとき、
 ルールも民主主義も踏みにじられ、
 権力はその暴力的を剥き出しにする。
 1980年代に下北半島で起きたことは、
 いま沖縄・辺野古で起きていることを思い出させずにおかない。

◎「リゾート」の名の下、地方に流入したバブル・マネー

 六ヶ所村で核燃受け入れをめぐって
 深刻な対立が続いているちょうどその頃、
 日本列島はバブル経済の狂乱のなかにあった。
 
 バブル経済は1985年9月のプラザ合意に端を発する。
 アメリカに円高誘導と内需拡大を迫られた日本政府は
 大幅な金融緩和を行なうが、
 すでに疲弊していた実体経済に資金需要はなく、
 行き先を失ったマネーは株と土地投機に流れ込んでいった。
 そうしたなか政府は、
 1987年、総合保養地域整備法(リゾート法)を施行。
 これが都市部で煮詰まったバブルマネーを
 地方に誘導するはけ口の役割を果たしたのである。
 日本でも欧米のような
 長期滞在型の休暇(「リゾート」の本来の意味)を
 実現しようという目的を謳った法律だったが、
 政治家や官僚に本気でその意思があったかどうかは疑わしい。
 リゾート法に指定されると
 様々な規制緩和により大規模開発が容易になる。
 そこで開発がもたらす経済効果に期待した
 全国41道府県42地域(北海道のみ2ヶ所)が指定を受けた。
 当時、ぼくは同僚たちと試算したのだが、
 これらの地域すべてに計画通りリゾート施設が完成すれば、
 日本人は働かないで一年中リゾートで遊ばなければならない。
 承認されたリゾート構想の集客計画をすべて足し上げると、
 そうした途方もない話になってしまうのである。
 もとより実現不可能なホラ話のようなものだったが、
 この稿の最初に書いたように、
 基幹産業の衰退で疲弊していた地方自治体は
 起死回生を賭して我がちにバブルの夢に飛びついた。
 戦後開拓で切り開いた農地、
 パイロット事業に失敗して多額の借金を抱えた農地、
 荒れた国有林、工場の来なかった工業団地が、
 次々にリゾート用地へと転用されていった。

 当時、リゾート計画をほぼ専門に取材をしていたぼくの目には、
 〝コトの本質〟は明らかだった。
 リゾートとは畢竟、バブル期の土地投機の一形態である。
 農業等の不振で買い手もなかった土地の価格が、
 リゾート法に指定されたとたんに
 何十倍、何百倍にも跳ね上がるのである。
 ぼくは「国家ぐるみの原野商法」と呼んでいる。
 思惑が走り、バブルマネーが狂奔し、
 結局ババを掴まされた自治体の財政難と
 都市銀行がひとつ潰れて終った。
 残されたものは荒れ地と化したかつての農地で、
 10年後に青森県岩木山麓のリゾート予定地を取材したが、
 かつては一面のリンゴ畑だった土地の面影もなかった。
 
 しかし、リゾートが計画倒れに終った地域はまだしもで、
 第3セクターのかたちで自治体が出資して
 リゾート施設の開業までこぎつけたところは悲惨だった。
 思惑通りの集客は望むべくもなく、
 それらの施設は十年を待たずに経営破綻して、
 自治体は借金を抱えて深刻な財政難に陥ったのである。
 (その典型が2007年に財政破綻した北海道夕張市である。)
 リゾート法のモデルケースだった北海道のトマムも、
 早くも1998年に運営会社が経営破綻、
 最近、中国系企業に買収されたと聞いた。
 宮崎のシーガイアも2001年に潰れ、
 アメリカのファンド・リップルウッドの手に渡った。
 リゾート開発に成功したところは、ぼくの知る限り一つもない。
 戦後史を通して衰退過程をたどっていた地方経済は、
 リゾートで最後の息の根を止められたとぼくは考えている。


◎フィクションとしての核燃料サイクル

 最後にもう一度、下北半島に視点を戻してこの稿を終えよう。
 建設開始から30年を経ていまだに稼働しない
 「核燃料サイクル」とはいったい何だったのだろうか?
 それを考えるとき、忘れてはならない事実がある。
 2004年、経済産業省の中堅官僚有志が、
 核燃料サイクルを中止に持ち込もうと水面下で動いたのである。
 当時、経産省では、
 核燃料サイクル(=使用済み核燃料の再処理)と、
 再処理を行なわず
 使用済み核燃料を直接処分した場合のコストを試算した。
 その結果、再処理を行なえば費用が19兆円かかるのに対して、
 直接処分ではその1/4〜1/3以下ですむという結果が出た。
 この試算結果は当時の幹部に握りつぶされることになるが、
 危機感を抱いた中堅官僚(複数)が匿名で
 「19兆円の請求書」という〝怪文書〟を書き上げ、
 政治家やマスコミの説得に乗り出したのである。
 ぼくはその官僚たちと直接面談しているが、
 彼らによれば、事務次官も暗黙の了承をしており、
 東電の幹部とも連日のように打ち合わせをしているという。
 推測すれば、経産省にも東京電力にも、
 核燃料サイクルを中止したいキャリア官僚・事務系幹部と、
 継続したい技官・技術系幹部との内部対立があったのだろう。

 そうしたなか、中堅官僚たちは、
 当時自民党きっての政策通といわれた与謝野馨と会談した。
 与謝野氏(故人)は官僚たちの意見に理解を示したうえで、
 「核燃料サイクルを稼働させる必要はない。
  永遠に建設中にしとけばいいんだ」と語ったという。
 その意味するところは明らかで、
 当時(現在もだが)使用済み核燃料は
 原発の敷地内に作られたプールで冷却保管されていたが、
 既にほぼ満杯の状態で、持ち出し先に苦慮していた。
 将来、再処理するときに使うという理由で、
 先んじて六ヶ所村に運び込み、保管をしていたのである。
 また、国と青森県、六ヶ所村とは、
 もし核燃料サイクルを中止する場合は、
 六ヶ所村で50年のあいだ「一時貯蔵」している
 高レベル放射性廃棄物を搬出する約束を取り交わしていた。
 
 ※高レベル放射性廃棄物とは再処理で生まれる核のゴミで、
   使用済み核燃料に比べてさらに激しく汚染されている。
   海外に再処理を委託して生じたものが日本に返還されていた。

 従って、核燃料サイクルを中止すればたちまち、
 使用済み核燃料、高レベル放射性廃棄物の持って行き場に困る。
 また、将来再処理に使うという理由で、
 使用済み核燃料を帳簿上「資産」として計上している
 電力会社の経営悪化も免れない。
 もし再処理工場が稼働すれば、
 核拡散防止の視点から国際的にも厄介なプルトニウムが増え、
 処分に困る高レベル放射性廃棄物もさらに増える。
 だが、「建設中」であればこうした問題は起こらないし、
 核燃料サイクルのタテマエは堅持しているわけだから、
 当面は問題の先送りができるという意味なのである。
 
 このエピソードから、
 アメリカが1970年代に実用化を放棄した核燃料サイクルに
 日本政府と電力会社がいまだに固執する理由を読み取れる。
 日本の原発は
 〝核のゴミ〟の処分問題を解決しようとせず、
 先送りにしたまま建設を続けてきた。
 いまもなお〝トイレなきマンション〟であり続けている。
 核燃料サイクルとは
 その矛盾をさらに先送りするための方便であり、
 今後も原発推進を続けるために必要なフィクションである。
 そして、矛盾を一手に引き受けて、
 見返りに全国でも稀な財政的な豊かさを手に入れたのが、
 かつて「よく住みついて来られた」と評された六ヶ所村だった。

 思うに日本の原子力発電は
 二つのフィクションで成り立っている。
 一つは上篇で触れた「安全神話」であり、
 その嘘が福島原発事故の遠因となったと思う。
 もう一つが核燃料サイクルによる〝核のゴミ〟問題の先送りで、
 福島原発事故後、
 当時の民主党政権が脱原発に転じようとしたとき、
 それが足枷となって腰砕けになってしまった。
 政府が青森県、六ヶ所村と結んだ協定は、
 いまも脱原発を考えるとき最大の障害の一つであり続けている。

 2004年の〝経産省・中堅官僚の乱〟は、
 経産省の技官と電力会社技術系幹部の連合軍によって鎮圧され、
 以降、「原子力ムラ」と呼ばれる集団の行く手を妨げる者は
 政府・財界からいなくなったと思しい。
 当時、核燃料サイクルのコスト試算の結果を握りつぶし、
 核燃料サイクルに批判的な官僚たちの前に立ちはだかったのは、
 資源エネルギー庁原子力政策課長だった
 安井正也氏(京都大学原子核工学科卒)だと言われている。
 氏は現在、原子力規制庁長官に就任している。
  

 




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