2016年8月30日火曜日

誰がチャイニーズ・ブッキーを殺したか?

釧路で連日の雨に降りこめられ、
庭仕事も出来ないので、昔のフィルム・ノワールを見ている。
雨の日には、これが気分的にぴったりあう。
1950年代のアメリカ映画が中心だが、
きのうはちょっと気分を変えて、
ジョン・カサヴェテスの1976年作品
「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」を観た。
20年くらい前になるだろうか、
一度観ているのだがくっきりした印象は残っていない。
カサヴェテスは
アメリカにおけるインディペンデンス、
つまり非ハリウッド映画作家の雄とみなされる存在だったが、
1989年に59歳で亡くなっている。
ぼくはデビュー作の「アメリカの影」から
もう一度、彼の作品を系統的に見直したいと考えている。

さて、「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」だが、
簡潔なタイトルが終わると
主人公のベン・ギャザラがタクシーを降り立ち、
屋外に設えられたカフェのテーブルで
画面には姿を現さない相手と会話を交わす。
この長いファースト・カットでいきなり惹き込まれた。
スクリーンから街の臭いが漂ってくるように思えたのである。
作り込まれたセットではない、ホンモノの街の空気感。
「空気を撮る」という意味では
カサヴェテスはいまなお傑出した映画作家の一人である。
空気の湿度がまるで違うが、
台湾の侯孝賢を思い出させるところがある。

そういえば。
意図した、確信犯的な「説明不足」も侯孝賢と似ている。
フィルム・ノワールでありながら、
この映画では殺しのほとんどは直截には描かれない。
ベン・ギャザラが脇腹を撃たれるシーンも、
流してみていると見逃してしまいそうなさりげない描写だ。
敢えてメリハリを外しているというか…。

そもそも、
ベン・ギャザラは単なるクラブのオーナーなのだろうか?
(以下、ネタバレあり)
既に足を洗ってはいるものの、
プロとしての血腥い過去があったのではないか?
標的の邸宅に忍び込んで一発でしとめ、
駆け込んできた護衛二人を一発ずつで倒した手際は、
ただのクラブのオーナーとは思えない。
それはギャザラを殺すように命じられてはいるが、
ぐだぐだ喋っているばかりで手を出せない
見かけ倒しのティモシー・ケリー(見かけは怖いw)を、
「素人だな」と見抜いた一言からも見て取れる。
相手を「素人」と評するのは
本人が「玄人」だからではないのか。
そう考えると、
マフィアが彼に莫大な借金を背負わせたのも、
彼の棄てたはずの過去を知り、
その腕を見込んで罠に嵌めたのではないかと思えてくる。
マフィアともあろうものが
ずぶの素人に殺人を委嘱するのは如何にも危ない橋だし、
そう考えるとすべての辻褄が合うのだが…。
しかし、カサヴェテスは、
プロットの要ともいうべき設定について何も語ろうとしない。
ひたすらに
クラブのオーナーであり、
演出家兼振付師、MCでもあるギャザラの
仕事に対する思い入れを淡々と描写するのみだ。

ぼくの“深読み”が当たっているかどうかはわからない。
というか、
カサヴェテスはきっと
「そんなこと、どうでもいい」と思っていたことだろう。
語られない部分を観る側の想像力に委ねた映画作りは
不親切といえば不親切で、
観客としてはしんどくもあり、愉しくもあり…。
「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」はそんな映画である。

2016年8月26日金曜日

台風去りし後…

今年の釧路は台風ラッシュである。
例年なら北海道にたどり着く頃には台風も疲れ果て、
温帯低気圧になったりする場合が多いのだが、
今年は元気なままの台風三つが相次いで北海道を直撃した。
1951年に統計をとり始めて以来初めてのことらしい。

特に先週の台風7号は
釧路で史上最強の最大瞬間風速43.2mを観測し、
住宅の屋根が剥がれるなど被害が伝えられていたから
東京にいながらも気が気ではなかった。
リフォームしたばかりの我が家は無事だとの連絡を
施工業者さんから受けていたので、
まぁ最低限の安心はしていたのだが…。

きのう半月ぶりに釧路に戻ってきた。
仕事(福島ロケ)や病院での治療を一段落させて、
涼しい釧路で2週間ゆっくりしようとの算段だった。
戻ったのが夜だったので子細は分らなかったのだが、
今朝改めて確認をしてみると
建物には確かに異状がないとはいえ庭木の被害が凄まじい。


我が家は海に近いので、
塩気を含んだ強風にもろに吹き晒されたのだろう、
南側(海側)に植えたハルニレの葉は無惨に枯れてしまった。
8月だというのに、まるで秋の終わりの光景である。
今年はもうしょうがないとしても、
来年きちんと若葉が芽吹いてくれるのかが心配になる。


庭に植えたツツジやライラックも枯れてしまった。
イタヤカエデの若木もご覧の通りの惨状である(下の写真)。


北側に植えたヤマモミジも葉の縁が枯れ始めていて、
今年の紅葉はもう期待できないだろう。


家の目の前の急坂が妙にきれいに整備されていると思ったら、
どうやら大雨で道が抉られ急きょ修理をしたところらしい。
家の周囲には落ちた枝や枯葉が散乱していて、
片づけたいのはやまやまだが、
きょうも一日中雨模様とあっては思うに任せぬ。
天気予報によれば今月いっぱい天気が悪いようで、
涼しい釧路にいながら「避暑」という気分になれないでいる。
できれば久々に知床に潜りに行きたいとも考えていたが、
羅臼ではビーチに続く道路が土砂崩れで通行禁止になった。

Uターンしてきた台風10号は
海で休んでいる間に勢力を増強して本州に近づいてきている。
まるでゴジラだ。
再び北海道が襲われるようなことになれば、
いったいどうなるのだろう?

心配ばかりで気の晴れない夏の終わりである。





2016年8月21日日曜日

2年ぶりのダイビング

20日の土曜日、久しぶりに海に潜った。
久々も久々…一昨年10月に知床に潜って以来だから、
ほとんど2年ぶりのダイビングである。


潜ったのは西伊豆の静浦ビーチ。
台風の余波なのか前兆なのか、
東伊豆のダイビング・スポットが荒れて全滅なので、
西伊豆に転進して静浦に潜った。
ぼくにとっては初めてのスポットである。


ウミエラやトサカ、サンゴ類がきれいな場所だが、
底土がごく細かい砂泥なので、
ダイバーが動きまわると舞い上がって
まるで煙幕を張ったような状態になってしまう。


大小のウミウシがひしめく海で、
ウミウシが好きなぼくには愉しい。
下は20cm大の大きなハスエラタテジマウミウシ。
砂地に、有り難みがないほどうようよいる(笑)。


2年近くも海から遠ざかっていたのには理由がある。
一昨年の暮れに大腸がんの再発が見つかり、
明けて2月から抗がん治療(化学療法)を開始した。
以来、抗がん剤(分子標的剤)の副作用で、
冷たいものに触ると指先やつま先が激しく痺れる。
大事を取って、去年一年は海に潜るのを控えた。
さすがに冬に潜るのは辛いので、
今年の夏の訪れを待って
ダイビングを再開するつもりでいた。
しかし、6月に白内障の手術を受けたため、
8月の下旬になって漸く潜ることができたわけだ。
60歳にもなると体のあちこちにガタがきて、
なかなか思うようにいかないものである。


静浦の1本目がちょうど通算で750本目。
潜行するのにBCのエアを抜こうとしたら
いきなり排気弁のヒモがちぎれたので慌てた。
その後もエアが漏れ気味だったりして、
エアの消費量が以前より多くなっている。
最後には足が攣ってしまうなどして、
楽しいながらも思うに任せないダイビングとなった。
2年のブランクのあいだに、
筋肉も機材もすっかり劣化してしまったようだ。

ぼくは先祖が海賊(?)だからか、
海では身も心も解放されるのを感じる。
妻は心配していたが、
思い切ってダイビングを再開してよかった。
今後も抗がん治療を続けながらになるので
そう頻繁にとはいかないだろうが、
年に数本でもいいから潜り続けたいものである。



2016年8月8日月曜日

リフォームと自転車


春から続けてきた
釧路の我が家のリフォーム工事が終わった。
希望通りの仕上がりで、
築21年の家がモダンで洒落た家に生まれ変わったのである。


かみさんの希望も容れて、
ちょっと「軽井沢テイスト」(笑)も採り入れてみた。
ツーバイフォーには見えない、別荘っぽい雰囲気になった。


もともと老後の住み処にするつもりだった家である。
ローンの残債やリフォーム費用で退職金はほぼ消えた(涙)。
東京で働いているかみさんの稼ぎが頼りのヒモ暮らし。
かみさんは
「宝くじが当たったら釧路で一緒に暮らそうね」という。
夢があるような、ないような…。


釧路でも、ぼくが住んでいる橋南地区は坂が多い。
港町が好きなぼくにはその坂の多さも魅力なのだが、
買物に行くのに徒歩で片道30分はなかなかつらい。
齢六十ともなると
自転車で急坂を登ると息が切れる。
そこで電動アシストの自転車を買った。
フレームがブリジストン、アシスト装置がヤマハの開発で、
両メーカーからほとんど同じ商品が別の型番で出ている。
ぼくが買ったのはブリジストンの方である。


タイヤのサイズは20インチ。
本当はもう一まわり大きなタイヤの方が乗りやすいのだが、
留守の間や冬期間は玄関に入れておかなければならず、
それを考えると大きさ的にこれがぎりぎりである。
還暦祝いで、妻と息子が半額出してくれるという。
さっそく乗り回すとさすがに体が楽で、
釧路の暮らしが見違えるほど便利になった。

この季節の釧路は気温がせいぜい25℃前後で心地よい。
木陰のデッキに坐って爽やかな風を受けていると、
極楽、極楽…と爺むさく呟きたくなる。
東京に戻るのが嫌になってくる。
買物や自炊のほか、
リフォームの工事期間はできなかった草むしりなど
庭の手入れに時間を費やす。
貧乏性の所為か、静養がなかなか静養にならないのである。
灼熱地獄の“内地”には戻りたくないが、
きょうの午後に東京に戻って、その足で福島に向かう。
明日からは飯舘や浪江町津島など高線量地域でのロケである。





2016年7月7日木曜日

我が家のリフォーム

春から釧路の家のリフォームに取り組んでいる。
築21年、
ツーバイフォーで建てた家だが、
サイディングの一部がはがれ落ち、
渋いグリーンだった屋根の塗装も剥げかかっている。
このまま放置して、雨でも滲み込むことになったら大変だ。

(今年5月撮影)

もともと老後を過ごそうと考えて建てた家である。
転勤族なので21年間の大部分は家を空けていて、
ここで過ごした日数をすべて足しても何年にもならないだろう。
その間ローンだけを払い続けていた。
バブル崩壊後とは言えまだ金利が高い時代だったので、
結局、借りた金の倍額近くを返したのではないか。
残債を退職金で完済して、
今年になってようやく完全に「自分のもの」になった。
そのときには補修が必要な時期に差しかかっており、
なんやかやで退職金の半分がこの家のために飛んだ計算である。
そして、家族の事情や
東京で病気の治療を続けていることもあって、
老後を釧路で過ごすという計画は半ば断念せざるを得なかった。
夏のあいだは出来るだけ釧路で過ごそうと考えているが、
それでも月の半分がいいところである。
ぼくに「人生計画」というものがあったとするなら、
それはすでにハチャメチャになってしまったワケである。

諸般の事情でツーバイフォーになったが、
できることならログハウスにしたかった家である。
どうせリフォームするのなら、
道東の環境に調和した洒落た家に生まれ変わらせたいと考えた。
数年前にウッドデッキを作ってもらった
地元の「丸善木材」という会社にお願いして、
壁に木のサイディングを張り巡らしてもらうことにした。


副社長の鈴木一浩さんの提案で、
(鈴木さんはファンクなオルガニストでもある)
木材の表面を焼き焦がしてから磨く
「焼き磨き」という手法で仕上げたカラマツ材を使った。


こうすると単純な塗装に比べ、
木目がくっきりと浮かび上がるのだという。



屋根はノワール(黒)で塗り直すことにしたので、
なかなか落ち着いた
シックな雰囲気の家に生まれ変わろうとしている。

四月に打ち合わせを始めて、
実際に工事が始まったのが六月。
きょうまで二週間釧路に滞在するあいだに、
だんだん仕上がりのかたちが見えてきた。
写真を撮って送ると、
東京の妻も「おしゃれだね」と気に入っている様子。
これから今月いっぱい、
仕事が忙しくて釧路に帰れないが、
下旬にはリニューアルが完成する予定である。
老後の日々をできるだけ長くここで愉しみ、
ゆくゆくは別荘として使うよう息子に遺すつもり。
いまは仕事や「デート」に忙しく
釧路にはなかなか寄りつかない息子だが、
やがてはぼくがそうだったように
道東の風土を好きになって欲しいものだと思っている。




2016年7月6日水曜日

お墓の話

ぼくの年代の男どもが集まると話題は概ね三つに集中する。
病気の話(病気自慢?)、親の介護の話、そしてお墓の話だ。
ぼく自身、まだ死ぬ予定はないが、
最近は将来どこに眠るのかを考えることが多くなった。
そして、先日、北海道釧路市にある墓地を“下見”に行った。


訪ねたのは釧路湿原を望む高台にある公営墓地・北斗霊園。
釧路の我が家からけっこう距離があるが、
近くのバス停から乗り換えなしで行けるので便利は悪くない。


芝生に名札だけが並ぶ合同供養墓所なら一人30万4000円。


このタイプは永代供養で、管理費も要らない。
つまり、死後、子どもや孫に迷惑をかけずにすむ。
ただ一ヶ所に埋葬するのは一人なので、
人数分をあらかじめ並びで買っておいた方がよさそうだ。
家族で入る従来型の規格墓地なら
基礎がついて82万8400円(4.5㎡)から。
墓石を建てれば百数十万円ということになるのだろう。


ぼくは横型墓石のこのタイプが気に入ったのだが、
すでに新規の分譲(というのかな?)は行なっていない。
何らかの事情で返した墓地なら2割引で手に入るらしいが、
「お墓の中古」というのは嫌う人が多いという。
ぼくは気にしないけれど…。


墓石を建てない樹木葬の墓地もある。
これはこれで悪くない気がする。
好きな形の墓石を建てられる自由墓地は4.5㎡で58万円。
こちらは基礎から作らなければならないので、
最終的にはどれくらいの金額になるのだろうか?
いずれにせよ、お墓というのは安いものではない。

ぼくの生まれは、釧路からほど遠い島根県松江市である。
父親の転勤で広島市に移り、大学の卒業まで広島で育った。
就職後は北海道での勤務が長く、
まだ独身だったときに
老後の住み処にするつもりで釧路に家を建てた。
その後、結婚をして、東京をベースにした生活をしている。
今年の初めに定年を迎えたが、
妻が東京で仕事をしているので、
目論見通りに北海道移住というわけにはいかなくなった。
長男だが、松江にも、両親のいる広島にも戻るつもりはない。

思えば、お墓は伝統的な「家制度」と直結している。
人が生まれた土地を離れずに一生を過ごした時代、
あるいは長男だけは、
例え進学や就職などで一度は故郷を離れても、
最後には帰ってきて「家を継いだ」時代の産物である。
いまのぼくのように
“根無し草”の人生を送ることは前提とされていない。

祖父母の墓は生まれ故郷の松江にある。
両親は幸い、ともに米寿を迎えようといういまも健在だが、
広島に家を買って暮らしている。
いまさら松江に帰ることは考えていないはずだ。
死後、どこに眠るかは、
やはり生まれ故郷を離れて暮らしてきた両親の問題でもある。
やがて親の死という避け難い事態に立ち至ったとき、
ぼくと弟は墓をどうするかという問題に直面することになる。
故郷の松江に墓を作ったとしても、
ぼくが元気なうちはいいが、
ぼくが死んだ後はどうなるのか?
うちの一人息子は松江には行ったことすらないのだ。
それでは広島か?
弟夫婦は広島に住んでいるが、
二人の娘は故郷を離れ、一人は福島の男性と結婚した。
ぼくらの次の世代には
広島には誰もいなくなってしまうのは明らかである。
それを考えてのことだろう、
父は散骨して欲しいというが、
家族の気持ちとしてそれにはいささか抵抗がある。

実はぼく自身も、
死んだら大好きな海に散骨して欲しいと考えていた。
死後はさっさと忘れ去られるのが一番で、
墓など必要ないと思い、
なんなら遺骨を「燃えるゴミ」に出しても結構だと(笑)。
しかし、妻に訊くと、やはりお墓が欲しいという。
遺された者が死者を偲ぶよすが、ということなのか。
妻は中国出身で、
中国は伝統的に個人墓なのだが、
「死んだらあなたと同じお墓に入りたい」などと
殊勝なことをいってくれる。
であれば、やはりどこかにお墓を確保するしかあるまい。
場合によっては両親をそこに葬ることも考えながら…。

釧路で墓地を見に行ったのはそんな理由からである。
ぼくが死んでも釧路の家は残るから、
(現在リフォーム中で、あと30年は使えるだろう)
息子が結婚して子どもでも出来れば
夏休みにでも家族で訪れる別荘として役に立つ。
避暑には絶好の気候だし、
観光やアウトドアの拠点として、
釧路の家はけっこう利用価値が高いはずだ。
そのとき、ついでに墓参りでもすればいい…と考えた。
妻が息子に話したところ、息子もそれでいいと答えたという。

自分の死後についてあれこれ思い悩むことになろうとは、
若いうちは夢想だにしなかったことである。
現実問題として、それなりのお金も必要になる。
東京のマンションのローンもまだ残っているというのに。
故郷を棄てた転勤族の身には
「悠々自適の老後」など夢のような話だと身にしみた。

2016年2月13日土曜日

“遺作”「下神白団地の人々」は今夜放送です。

今夜はぼくが
NHKのディレクターとして作った最後の番組が放送される。
原発事故で住み慣れた家を追われ、
いわき市の復興公営住宅で暮らし始めた人たちの物語だ。
福島県営下神白(しもかじろ)団地。
ちょうど一年前、去年の2月に入居が始まり、
200世帯337人が暮らし始めた。
事故を起こした福島第一原発にほど近い
富岡、大熊、双葉、浪江の四町の人たちで、
様々な事情で自宅への帰還が難しい彼らにとって
ここが“終の住み処”ということになる。

県営下神白団地

ぼくが初めて下神白団地を訪れたのは去年の春で、
神戸で21年間、被災者支援のボランティアを続けてきた
牧秀一さん(65)と一緒だった。
牧さんは、神戸での経験から、
復興公営住宅で被災者が孤立していくことを危惧し、
毎月一度、神戸から福島に通い続けることを決意していた。
最初に下神白を訪れたとき、
牧さんとぼくがともに強烈な印象を持ったのは、
アパートの建物のあまりの殺風景さと
そこに高齢者ばかりが住んでいることだった。
敷地内には緑やベンチがほとんどなく、
居住者が集まって世間話ができる“居場所”がないのである。
200世帯のうち、60歳以上の独居世帯が83、
後期高齢者の一人暮らしだけで39人を数える。
それに対して小中学生は一人もいない。
原発事故は、
いわき市の一角に超高齢化社会を生み出したことになる。

団地に二脚しかないベンチにて
横山けい子さん(富岡町・86)と神戸からきた牧秀一さん

確かに高齢者が孤立しかねない条件がそろっていた。
ぼくは他の番組を作りながら、
あいまを見てこの下神白団地に通い続けた。
少しずつ、団地の人々と知り合い、親しくなった。
本格的に撮影に入ったのは10月からで、
信頼関係の熟成には充分時間をかけることができた。
ぼくはNHKという組織に対してはいろいろ批判もあるが、
番組の準備に充分な時間をかけさせてくれたことには
一貫して感謝の念を抱いている。
そして、
原発事故で避難をした高齢者の生活などという、
このうえなく地味な番組を作り続けさせてくれたことにも。

牧さんと渡部清さん(浪江町・78)…クリスマス会にて

ぼくは下神白団地を舞台に、
原発事故でふるさとに住めなくなり、
見知らぬ土地で
新しい共同体を作り上げようと努力する人々の姿を撮った。
とりあえず、ぼくの“最後の番組”である。
ぼくは、若い頃から、
テレビ・ドキュメンタリーの使命は、
ある時代にある社会状況を背負って必死に生きている
無名の人たちの貌(かお)を記録するものだと考えてきた。
そういう意味で、
最後まで自分らしい番組を作れたことに満足している。
これが文字通りの“遺作”になっても悔いはない。


ETV特集
下神白団地の人々

今夜11時Eテレにて放送(59分番組)
再放送:2月20日(金曜深夜)午前0時


NHKは先月いっぱいで退職したが、
福島との御縁がこれで切れるわけではない。
新しい関係を求めて、近々また旅に出ることになるだろう。







2016年1月12日火曜日

原発事故から5年の「理科・社会」

放射線防護学者の安斎育郎さんの著書に
「原発事故の理科・社会」(新日本出版社)というのがある。
端的にして絶妙なタイトルというべきで、
原発事故の全体像は
「理科」と「社会」の
どちらの視点が欠けても見通すことができない。
それは、福島の取材を続けてきたぼくの実感でもある。
まもなく福島原発事故から5年。
まだ「収束」というにはほど遠い状況が続いている。
原発事故後の福島、あるいは日本社会をどう考えるべきか、
今後いったい何が課題として残されるのか、
安斎さんに倣って
「理科」と「社会」の両面から整理を試みてみたい。


まず、「理科」。
いまだに「福島に人が住むべきではない」などという人がいるが、
「帰還困難区域」などを除いた
現在も人が住んでいる区域については、
放射線が健康に深刻な影響を及ぼすことは
まずないだろうと考えている。
根拠は積み重ねてきた実測データと、
安斎さんを始めとする
複数の専門家の知見ならびにアドバイスである。

去年、ぼくたちは、
昼間は楢葉町(主に屋外)で撮影を行い、
夜にはいわき市で泊まるという生活を続けていた。
撮影期間を通してスタッフは積算放射線量の計測を続けてきたが、
一日の放射線量(推定被ばく量)は
おおむね2マイクロシーベルト弱で推移していた。
ちなみに京都在住の安斎さんとその秘書が
我々のと同じ機種の線量計で測った数値がほぼ同じである。
京都には福島原発事故の影響は及んでいないので、
これは自然放射線の数値だと考えていい。
つまり、
福島が危険だというなら京都に住んでいても同様に危ない、
逆に言えば、
京都が安全な程度には福島も安全だということになる。
さらに取材を通して知り合った川俣町の山あいに住む女性にも、
安斎さんの協力で同じ機種の積算線量計をつけてもらった。
その結果は、年間被ばく量に換算しておよそ1.5ミリシーベルト。
これは外部被ばくの数字で、
日本人の場合、
他にカリウム40など食物を通しての内部被ばくが
平均で年間およそ1.6ミリシーベルトあると言われているから、
合計で年間3.1ミリシーベルトの被ばくが推定されることになる。
(この女性の生活から内部被ばくが通常より高いとは考えられない。)

日本人の平均被ばく量は年間2.2mSvだから、
それより年間1ミリシーベルト弱高いことになる。
しかし、この数字は、
自然放射線で年間5ミリシーベルトを被ばくするフランスや、
10ミリシーベルト近い北欧諸国に比べれば低い。
つまり、除染などの結果として、
福島で暮らす人の被ばく量は概ね
自然放射線量の地域差に収まる程度のものでしかないことになる。
これ以外にも
生活地の異なる複数の福島県民の実測データが手元にあるが、
この範囲をはみ出して突出した被ばく量は観測されていない。

この川俣町の女性と諸外国の自然放射線量の比較については
番組(ETV特集「終わりなき戦い」)のなかでも紹介している。
さらに同じ番組では、
基準値を超える食物(例えばマツタケ)を食べたとしても、
量を考えれば
ほとんど問題にはならないという安斎さんらの見解も紹介した。
さらに別の番組(ETV特集「帰還への遠い道」)では、
楢葉町で採取された山菜がゼンマイを除いてはすべて基準以下、
それも多くがNDであった事実を紹介している。
つまり、
健康被害が出ることへの警戒は今後も怠るべきではないが、
現状ではそれほど神経質に恐れる状況にはないだろうというのが
取材を通して得たぼくの結論である。
もちろんデータのない初期被ばくによる甲状腺がんについては、
現時点で拙速な判断はできず、
今後とも警戒を続けていく必要があるだろう。
しかし、トータルとして言えば、
福島原発事故の被害は、
不幸中の幸いで、その程度に収まったといえそうだ。

さて、ここまでは原発事故の「理科」の問題である。
これが原発事故の「社会」の問題に目を転じると様相が一変する。

原発事故は、
福島で暮らしてきた人々の生活をめちゃくちゃにしてしまった。
避難指示区域では、
事故に起因するコミュニティの崩壊は
もはや回復不能なところまで進んでいる。
ぼくが取材してきた楢葉町では
去年の9月に政府の避難指示が解除されたが、
現在に至るまで町民の僅か5%ほどしか帰ってきていない。
「安全」に対する懸念があるのは確かだが、
以前あったような地域社会が壊れてしまったために、
例え家があったとしても帰るに帰れないと訴える人が少なくない。
また、森林の除染を放棄したことで、
山菜やキノコの採取などで
里山と密着していた人々の暮らしぶりは大きな変化を免れない。
こうして、
数百年のあいだ
人々が営々として築き上げてきた地域社会の歴史が、
事実上、原発事故をもって断絶してしまったところが現れている。
人間関係や、生業、祭りなどの習俗
…地域の暮らしそのものが壊れた。

そしてそうした「事故によって強いられた生活の激変」は、
一見平穏を取り戻したかのように見える
避難区域以外にも確かにある。
避難区域に隣接する南相馬市などでは特に顕著だ。
多くの人たちが、いまなお逡巡や苦悩を心の内側に抱いている。
避難をしたくても生活を考えれば避難はできなかったとか、
いまでも避難しなかったことが
本当に良かったのか考えてしまうとか、
取材の中でそうした声を聞くことは珍しくない。
子どもたちに甲状腺の異常が見つかり、
避難をしなかった自らを責める気持ちに苛まれている人もいた。

ぼくが取材した範囲で言えば、農家の方々の苦悩も深い。
福島の農家は深刻な「風評被害」に苦しめられてきた。
放射性物質がほとんど含まれていない事実が明らかにも拘らず
せっかく丹精を込めた収穫物を
買い叩かれることが少なくなかったのである。
去年、福島県で収穫された米は、
すべて出荷基準以下の放射性物質しか含まれておらず、
それもほとんどはND(検出限界以下)だった。
農家の努力の結果であり、
科学的根拠を無視した
風評被害が一掃されていくことを願ってやまない。
しかし、ひとたび農家の側に立って考えれば、
風評被害が消えたとしても
それで問題が解決したことにはならない。

農家…とりわけ専業農家には、
「自分が目指す農業」の方向を明確に持っている方が少なくない。
そのため、時間をかけて土作りもやってきた。
農業の現場を取材すればすぐ判るが、
多様で、創造性に富んだ現場である。
原発事故でセシウムが田畑に降り注いだことは、
そうした農家が営々と続けてきた取り組みを
一瞬にしてご破算に追いやったことに他ならない。
農家は
よりよい作物を作るためのそれまでの取り組みを一旦中断して、
セシウムとの戦いを始めなければならなかった。
セシウムによって汚染された地表から数cmの表土は、
いうまでもなく農家の命である「最も肥えた土」である。
除染のため田畑の表土を剥ぎ取ることは、
それまで長年の努力によって作り上げてきた
土を失うことに他ならない。
いわゆる「天地返し」にしても、
多くの場合、地力を落とすことになる。
そして、除染をしなかった場合は、
放射性物質が
依然として土の中に残っているという事実が彼らを苦しめる。
ぼくには本当のところは判らないが、
田にゼオライト(セシウムの吸着剤)を入れると
米の食味が落ちるというので悩んでいた農家もいた。
そして、セシウム137の半減期は30年。
原発事故がなければ追求していたはずの目標、
それに向けた取り組みを全てご破算にされたうえに、
「自分の一生はセシウムとの戦いで終わることになるのか」と
深い絶望感を口にする人もいた。
こうした人たちにとって、

出荷した産物の「安全」が確認されたことは
ようやく「振り出しに戻った」ことでしかない。
原発事故の被害がいまなお回復されていないのは明らかである。


「社会」の問題の多くは表面から見えにくい心の問題でもあるが、
原発事故が人々に残した「傷」は決して小さいものではない。
「安全」か「危険」かは
原発事故を考えるときの重要な要素に違いないが、
それだけで考えると全体像を見失うとぼくは判断している。
原発事故の被害とは、
こうした一人一人の人生に即して語られるべきではないだろうか。

今後は、
廃炉をどう実現していくかという問題、
すでに破綻が明らかな
除染廃棄物(等)中間貯蔵施設の問題もある。
そして、その先には、
廃棄物の最終処分場を福島県外に設けるという
到底実現可能とは思えない
事故処理の「フィクション」が待ち構えている。
さらに、
住民の帰還が進まなければ
成り立たなくなってしまう自治体の破綻処理など、
巨大な「社会」の問題は山積である。
稿を改めて書くつもりでいるが、
既存のコミュニティが崩壊してしまった後に、
新しい土地で
見知らぬ人たちとの暮らしを始めなければならなかった、
高齢の被害者たちの孤立をどう防ぐのかも
今後の課題となるだろう。
…政府はこうした問題にどう決着をつけようとしているのか。
天文学的な巨費に達すると予想される
事故処理費用の負担はどうするのか。
すでにADRの和解案拒否や
除染費用の支払いを拒否するなど
強硬な姿勢を見せている東電の問題もある。
そうしたことの一つ一つが
直接・間接的に住民の生活にのしかかってくる。


こうしてみると
原発事故の問題は
「理科」以上に「社会」の問題ではないかという気もする。
問題はすでに明らかになったものだけでも充分に深刻ではないか。
ぼくは、4年半にわたる取材の結果として、
例え深刻な健康被害が起こらなかったとしても
原発事故の被害は
やっぱり「取り返しがつかない」ものだと考えている。


2016年1月3日日曜日

日韓“合意”の裏表

ぼくは自分の価値観が「マイナー」だと自覚している。
視聴率1%にも満たない番組を作り続けてきたわけだし、
何より大洋ホエールズ以来、50年来のベイスターズファンだ。
自分が多数派の一員などとは夢にも思わない。
ただ、そんなぼくでも、
多数派に属していると思えることが一つだけ(?)あって、
それは「支持政党なし」ということだ。

支持する政党はおろか政治勢力もないぼくにとって、
政治的選択は「どこが多少はマシか」という一点に絞られる。
そんなぼくに言わせれば、
現在の安倍政権は「考えられる限り最悪の選択」である。
安保などの外交政策、アベノミクスの経済政策、
社会保障の切り下げと企業優遇、強権的なマスコミ対応…
どれひとつとっても全く支持できない。
願わくば、なんとか早くお引き取り願いたいと考えている。
しかし、その安倍政権が、
よくやったかな?…と思えることがひとつだけあった。
去年の暮れの、従軍慰安婦問題をめぐる“日韓の和解”である。
もちろん、
当事者である旧慰安婦女性の理解を得るという課題は残るが、
いつまでも両国が不毛な対決を続けているよりはいい。
ともかく、日本政府が「軍の関与」を公式に認めて、
国家としての責任を自覚し、
謝罪するというならそれは一歩前進だと思った。

ところが、雲行きがいきなり怪しくなる。
片山さつきさんを始めとする保守系議員が、
「(韓国と約束した)10億円の拠出は
 (慰安婦を象徴する)少女像移転が前提」だと言い始めたのだ。
常識として考えれば判ることだが、
民間団体が設置した少女像の移転を政府に求めることなど、
民主主義国家である以上は考えられない。
つまり、そもそも筋が通らない要求なのである。
だから、公式の合意文書には、
「韓国政府は少女像の移転に努力する」としか書かれていない。
当然の話で、
韓国政府には「努力」以外にできることなど何もなく、
従って「少女像の移転」は
政府間合意の「前提」などにはなり得ない。
(片山さんらは)何を馬鹿な話をしているのか、
ようやく合意を取り付けた安倍政権の足を引っ張るつもりか、
と大いに疑問に思ったものである。

ところが、合意から数日を経ずして、
新聞紙上などで、
「少女像移転が合意の前提」だとする
日本政府筋の見解を伝える記事が相次いだ。
ありえない話だ、とぼくは思った。
そんな条項は公式の合意文書に一言もなく、
もとより韓国政府が受け入れられるはずもない条件だ。
(民主主義国家として要求することすらあり得ないと思う。)
安倍政権はせっかくの合意を自らぶち壊しにする気かと訝った。
現に、韓国政府や、慰安婦を支援してきた民間団体は、
日本の報道論調に対する不快感・不信感を隠そうともしない。
このままでは、
日韓関係は却って修復不能なところまで悪化するのではないか?

だが、冷静に考えると、
報道されたような日本政府の対応はあり得ない話に思えてきた。
今回の日韓合意の背景には
アメリカの強い意向があったと伝えられる。
ぼくには外交に関する確かな情報源などないが、
筋道として、おそらくはその通りなのだろうと思う。
それ以外に、
日韓両国の政府が
それまでの姿勢を改めてまで和解を急いだ理由は考えられない。
してみれば、
せっかく成立した和解を台無しにすることは、
アメリカの面子を潰し、その意向を逆撫でにすることになる。
例えて言えば、
親分がせっかく段取りをつけた手打ちを
子分が無理筋のいちゃもんをつけてぶち壊すことに他ならない。
顔を潰されて黙っている親分はいないだろうし、
いまは亡き菅原文太さんの「人斬り与太」シリーズではないが、
逆らった子分は血だるまになって葬り去られるほかなかろう。
知性の欠如が問題にされがちな安倍さんだが、
この程度の道理さえ理解できないほどのマヌケではあるまい。
だとすれば、
国内向けには虚勢を張って強硬な発言をしながら、
その陰でアメリカに対しては、
「親分、あんじょうしまっさかいに、
 申し訳おまへんが、もうちっと黙って見とっておくんなさい。
 最後はきちっとわてがカタつけさせてもらいます」
…とかなんとか、二枚舌を使い分けていそうな気がする。

そのあたりの裏表の機微を報道機関はきちんと伝えるべきだ。
まかり間違っても、
政府の世論誘導のお先棒を担ぐようなことがあってはならない。
ぼくは政治部の記者に基本的な不信感を持っていて、
彼らの多くは
「どっちを向いて仕事しているかわからない」と見ている。
かつてちょっとした問題になったが、
当時の森首相の「神の国」発言に対して
マスコミ対策を指南したNHK記者みたいなのが
政治家の周辺に多数いそうな気がしてならないのだ。
政治の深層を知りつつ記事にはしないことで、
政治家と一種の共犯関係になり、
自分も政治を動かしている権力者の一員にでもなったように
思い違いをしている連中が多いのではないか、と。

去年は、政治・社会・経済的に酷い一年だったと思う。
今年はもうちょっとはマシな一年であって欲しいと心から願う。
そのためには、自分自身も原点に立ち戻るしかない。
本業の番組はもちろん、
インターネットを駆使して、
民主主義を支えるための発信を続けていきたいと考えている。

2016年1月1日金曜日

「世界三大夕日」って…(笑)

今年は家族三人、釧路の自宅で正月を迎えた。
息子が大人になってから、
家族揃って釧路に来るのは初めてのことだ。
(息子はいままで寒いからイヤだと言い張っていた…w)
東京では三人とも仕事が忙しいので、
のんびりと何をするでもなく
家族が面つきあわせて過ごす時間はなかなか新鮮である。

12月29日・釧路川の夕焼け

いつものように、
ぼくは、ほぼ毎日、夕日の写真を撮っている。
暮れに買物でイトーヨーカドーに行ったら、
地下のトイレに釧路の夕日の写真が飾ってあり、
「世界三大夕日」と書かれていたので笑ってしまった。
最近、幣舞橋で夕日の写真を撮っている人が目立つのは、
こうしたキャンペーンが功を奏したためかもしれない。
いまの釧路には、
夕日の美しさくらいしか売り物がないのが現実でもある。

12月29日の夕焼け

しかし、何でもそうだが、
「三大…」とか言い出したとたんに一気にアヤシゲになる。
釧路の「世界三大夕日」は、
クレオパトラ、楊貴妃に加えて、
小野小町を「世界三大美人」に数えるのと同じくらい、
「井の中の蛙の我田引水」のニオイがした(笑)。

12月31日の夕暮れ

とはいえ、釧路の夕陽は美しい
冬のこの季節は幣舞橋から向かって左のビルの陰に陽が沈む。
「釧路の夕陽マニア(爆)」のぼくに言わせれば、
厳冬期は空気の透明感が増すこともあって、
夕陽そのものより日没直後の空の染まり方がポイントである。

1月1日・幣舞橋の彼方に沈む夕陽

だから、陽が沈んでも、
しばらくの間、寒いのを我慢しながらじっと待つ。

1月1日・残照の釧路川


ぼくは今月いっぱいで定年退職を迎える。
福島の原発事故避難者の生活再建の問題など、
継続的な注視が必要なテーマがあるので
何らかのかたちで仕事を続けたいと考えているが、
オフの時間がいままでより多くなるのは間違いない。
ぼくは可能な限り、
釧路で過ごす時間を長くとりたいと思っている。

1月1日・釧路河畔の黄昏

今年は何日分の夕陽を撮影することになるのだろうか?

(写真はすべてSIGMA dp2 Quattroで撮影)







2015年11月14日土曜日

これは、確かに「戦争」だ…

きょうは土曜日だが仕事で、
都内で放射線関係の会議を撮影した。
その仕事のあいだだけは忘れていることができたが、
それ以外は終日、鬱々として気が晴れないままに過ごした。
理由はいうまでもない、パリで起きた「同時多発テロ」である。

もちろん、たくさんの方が亡くなったのは痛ましいことだ。
だが、それ以上に、
「これは戦争だ」という気持ちがつきまとっていて、
ある種のやりきれない悲しみが心に深く突き刺さっていた。
それは、今年の始め、
後藤健二さんが殺されたときに抱いた感情に近い。
どうやらテロを仕掛けたのは(予想されたことだが)ISらしい。
フランスのオランド大統領は
「われわれは戦争に直面している」と言ったらしいが、
その認識はたぶん正しく、
その“正しさ”がぼくをやりきれない気持ちにさせている。

かつてチャップリンは「殺人狂時代」(’47)において、
一人を殺せば殺人者だが、
(戦争で)たくさんの人たちを殺せば英雄だ、と言った。
同じように、
「テロ」と呼べばそれは「犯罪」だが、
これが「戦争」であるなら
多くの人を殺したことは「戦果」に他ならない。
オランドが言うように
これがISとの「戦争」だとすれば、
殺戮は当然予想される結果であり、ISなりの「正義」である。
こう書いたからといって、
ぼくがISを支持し、その行為を肯定しているわけではない。
しかし、「これは戦争だ」というリアルな認識は必要だと思う。
「戦争」という概念の実態が、
近代国家同士の争いだった時代とはかけ離れているのである。

後藤さんの死に際して、
ぼくはブログに次のように書いた

「ぼくが『悲しい』理由は、
 たぶんこれが『戦争』だと認識しているからだ。
 『戦争』は必然的に多くの人たちの『死』を意味する。
 銃弾に当たっての死であろうと、
 無差別爆撃による死だろうと、
 あるいはナイフで首を掻き切られての死だろうと、
 それが残虐な『死』であることには何の変わりもない。
 だから、戦争だけは絶対に避けなければならないのだが、
 ぼくたちはどうやら
 『対テロ戦争』という名の戦争に巻き込まれてしまったらしい」

「悲しみの果てに、
 ぼくはなぜか『憲法9条』のことを考えた。
 …(略)…
 憲法9条は、
 『国際紛争を解決する手段』として
 『武力の行使ないし武力による威嚇』を禁じている。
 それは一見非現実的な理想主義に見えて、
 この世には『絶対の正義』など存在しないという
 極めてリアリスティックな認識に基づいているのではないか。
 かつての日本が起こした戦争もまた、
 主観的には『自衛』に基づいたものだった。
 その結果、自国民はもとより、
 『敵国』とされた国の人々、アジアの民衆を多く傷つけた。
 その誤ちを繰り返さないために、
 人殺しを正当化できるほどの『正義』はないと胸に刻んだ。
 その痛切な理想に、ぼくたちはもう一度立ち返るべきだと思う」

ぼくがこう書いた後、
安倍政権が安保法制で全く逆の方向に舵を切ったことは、
ここで改めて書くまでもないだろう。
憲法9条を有名無実化して、
アメリカとの同盟関係を強化する方向をぼくたちの国は選択した。
しかし、
それはもはや時代遅れの「戦争観」に基づく選択ではなかったか。
別の日のブログでぼくはこうも書いた。

「現実には『アメリカの喧嘩の助っ人を買って出る』ことは、
 本来日本の敵ではなかったはずの国や勢力を敵に回すわけで、
 安全保障上のリスクを増やす結果にしかならない」

「勢力」という言葉を使っていることからも明らかな通り、
ISなどの所謂「テロ集団」を念頭に置いて書いた文章である。
アメリカの中東政策は数十年にわたって深刻な失敗を繰り返し、
アルカイダやISなどの“鬼っ子”を生み出すことで、
もはや修復不可能なまでの混沌に世界を叩き込んでしまった。
そうした歴史を検証することなく、
「対テロ戦争」という名の「アメリカの正義」に加担することは、
日本の安全保障上極めて危険だとぼくは一貫して危惧していた。
その危惧がピント外れでなかったことが、
今回のフランスの痛ましい事件で実証されたのではないか。

自分の見通しが正しかったと、
わざわざそんなことを言うためにこの文章を書いているのではない。
見通しが間違っていなかったらしいことが、
ひどく辛く、「悲しい」というのが偽らざる現在の気持ちである。
世界が憎しみの連鎖に向かって突き進んでいて、
それに歯止めをかける力がちっぽけな自分にあるはずもなく、
のみならず他ならぬ自分の国が間違った方向に進もうとしている。
判っていて止められないのは「悲しみ」以外の何物でもない。

もう一度、ぼくが信じるところを書く。
「正義の戦争」などはない。
「アメリカの戦争」も「ISの戦争」も
どちらも暴力による「正義」の強制である点で間違っている。
だから、いずれか一方の「戦争」に加担すること自体が誤りだ。
もちろん、
自国の「正義」を戦争で実現しようとすることも誤りである。
「あらゆる戦争に反対する」ことが、
観念論・理想論に見えて、
実はリアリスティックな認識に基づく現実的な姿勢なのである。
フランスの悲劇は、
憎しみの連鎖をどうすれば断ち切ることができるかという
重い課題をぼくたちに突きつけた。
少なくとも、暴力による報復は事態をこじらせるだけだ。
(それはアメリカの失敗の歴史が証明している。)
「止められない」ものを「止める」ために自分に何ができるのか、
「悲しみ」を超えて模索しなければならないと思う。
そう思いながら、
それでもやっぱり起きてしまった現実を前に
どうしようもない無力感に打ちひしがれているのである。

2015年11月3日火曜日

釧路の夕陽はやっぱり日本一


相変わらず、釧路の夕陽の写真を撮り続けている。
初めて撮ったときから既に30年以上の月日が経っている。
当時はフィルムの時代で、
初めてもらった給料で買ったNIKON FMだったと思う。
以来持って歩くカメラは色々替わり、
いまでは専らデジカメだが、
飽きもせずに釧路川に沈む夕陽を撮り続けているわけだ。




この季節の釧路は4時頃が日没。
釧路に帰ってくると原則三食自炊なのだが、
この季節はちょうど買物に出かける時間に陽が沈む。
だから、バッグに愛用のSIGMA dp2 Quattroを入れて出て、
買物の行きか帰りに
幣舞橋あたりで陽が沈む様を眺め、撮影するのが日課だ。
一ヶ月前に撮ったときと比べると、
日が落ちる場所が随分と南寄り(画面の左側)になった。



これは一昨日撮ったもの。
釧路はこれから冬にかけて空気の透明感が増していく。
幣舞橋の上にはたくさんの人が出ていて、
ぼくと同じように夕陽にカメラを向けている。
気がつくと周囲に中国語が飛び交っている。
ぼくは釧路の夕陽は日本一だと勝手に決め込んでいるのだが、
釧路の夕陽の美しさが
国際的にも知られるようになってきたらしく、
“先駆者”(?)としてはなんとなく誇らしい気分である。



昨日は雲がどんよりと重く、空が染まらなかった。
行きつけの酒場の主、
河村龍三さんが藍綬褒章をもらったので、
スパークリングワインを一本ぶら下げてお祝いに行って
少々酔っ払ってしまい、
電話の声の調子で判るのか、かみさんに叱られてしまった。
こちらはきょうの夕陽。
雲の織りなす表情がなかなかゴージャスである。
(8年ほどの中断はあるが)30年以上撮り続けてきて、
空気の透明感、雲の表情…
当然ながら一日として同じ夕陽はない。
だから、飽きもせず撮り続けることができるのだろう。


晩秋の釧路で5日間静養をして、
毎日自宅で旨い魚を食べながら酒を飲んでいたが、
仕事(ロケ)と抗がん治療の繰り返しで疲れていたのが、
すっかり元気になってしまった。
明日は東京に戻る予定だ。






2015年10月31日土曜日

アイヌモシリで「民族」について考える。


いつものようにアイヌモシリ(釧路)で休暇を過ごしている。
「アイヌモシリ」とは
アイヌ語で「人間の(静かな)大地」というほどの意味。
いまの北海道のことだと考えても
それほど大きな間違いではないだろうと思う。
アイヌモシリの軒下三寸借り受けていることもあって、
きょうは「民族」について書いてみたいと思う。
というのも、
日本国内でしか通用しない、
正確に言えば、日本国内ですら通用しない、
井の中の蛙の自分勝手な「民族」論を振りまわして
「アイヌ民族など存在しない」と主張する人が目立つからだ。
ネトウヨと飛ばれる人たち、
いまの安倍政権に親近感を持っている人たちに多いように思う。

ぼくは北海道で17年間勤務をしたし、
かみさんが異民族(日本国籍の中国人)ということもあって、
他の人より「民族」について考え、学ぶ機会が多かったと思う。
よく判ったのは、
「民族」について客観的に定義するのは難しいということだ。

日本人は長いあいだ
「単一民族国家」というフィクションを信奉してきた。
もちろんそれは
明治以降に政治的に形作られたイデオロギーなのだが、
その前提には日本人ならではの民族観があったように思う。
みんな似たようなモンゴロイドの顔立ちで、
代々狭い日本列島で日本語を話して生活してきたことが、
無意識のうちに
血筋や言葉の共通している人間集団が
「民族」だとの考えを植えつけたのではないか。
ところが世界に目を転じれば、
DNA的に共通点が多く言葉も同じでありながら
宗教が違うことを理由に「民族浄化」に走った人たちがいる。
一方で、ユダヤ人のように、
白人も黒人もいて(DNAがかなり異なる)、
世界各地に散らばって違う言語で生活してきた民族もいる。
もちろんユダヤ人やセルビア人、クロアチア人などは
「民族ではない」という議論も可能だが、
それではそうした人間集団を何と呼べばいいのか。
第一、ユダヤ人に
「あなたは何民族ですか?」と訊けば、
「ユダヤ民族です」という答えしか返ってこないだろう。
それを「民族ではない」と否定してしまえば、
世界にはどの「民族」にも属さないと考える人たちが
大量にいることになってしまう。
そうなれば「民族」という概念自体が意味を失う。

「民族」の定義を突き詰めれば
最後は「自分は何民族だと考えるか」という
アイデンティティの問題に行き着かざるを得ない。
アイデンティティの根拠は、
DNAだったり言語や文化、歴史や宗教だったり様々である。
もっとも、当然ながら、
「歴史的な客観性に裏打ちされたアイデンティティ」であって、
ぼく自身がいくらそう思ったところで、
アイヌ民族にも漢民族にもゲルマン民族にもなれっこない。
ぼくは自分では「出雲族」と名乗りたい衝動にかられるのだが、
あまり客観性がないので、
不本意ながら「大和民族」ということになるのだろう。

「民族」を客観性だけで定義づけるのが難しい以上、
「アイヌは民族ではない」という議論も成立する余地がある。
しかし、そう主張する人たちは、
自らが考える「民族」の定義を明らかにしたうえでなければ、
話にも何にもならないことは言うまでもない。
そして、その「民族の定義」は、
少なくとも世界の大多数の人たちを
包摂するものでなければならないはずである。
何をもって「民族」とするかの定義を明確にしないまま
「アイヌ民族はいない」などと主張する人たちは、
意図的なデマゴーグであるか、
さもなければ思考能力が欠落しているかのどちらかである。

そしてもうひとつ大切なことは、
アイヌが「民族」であるか否かに拘らず、
北海道の「先住民」であることは疑う余地がなく、
国際的にも認められているということである。

国際的に「先住民」の先住性は
近代国家成立の時点で判断することになっている。
だから、例えばユダヤ人は、
紀元以前にパレスチナの地で生活していたとしても
パレスチナの先住民とはみなされない。
近代国家成立以前から継続的にその地域に生活しており、
後から来た移住者・開拓者に圧迫されて
「非支配的な地位」に置かれた人たちが「先住民」である。
「近代国家」という西欧的な概念を
世界のあらゆる地域に当てはめるのは多少の無理があり、
いつをもって「近代国家成立」とするかは議論があり得るが、
日本で言えば明治政府の成立だとみるのが一般的だろう。
その時点でアイヌが北海道に先住していたのは間違いないし、
その後、「非支配的な地位」に置かれたことも疑いない。
明治32年に制定された
「北海道旧土人保護法」という法律があるが、
この「旧土人」という表現そのものが、
明治政府がアイヌの人たちを
いまでいう「先住民」とみなしていたことの雄弁な証左である。

ぼくは専門的に研究してきたわけではないので
多少記述に不正確なところがあったかもしれないが、
逆に言えば、
ぼくの独自の見解でもなんでもない、
言わば「常識」を説明したに過ぎないのである。
こうした「常識」を踏まえようとせず、
あるいは学ぼうという意識さえ持たないままに、
「アイヌ利権」だの「在日特権」だのいう妄想を振り回し、
あたかも日本人が
不当に権利を侵害された
「被害者」であるかのように言い立てるのが昨今の風潮だ。
この倒錯した論理が
ユダヤ人を迫害したナチスドイツの相似形であるのは、
「常識」を弁えた人たちにはいうまでもないことだろう。

常識のない人たちが
妄想としかいいようのないことを
大声でがなり立てているのを見るにつけ、
大和民族の劣化は甚だしい、と皮肉に言いたい気持ちになる。

2015年10月19日月曜日

帰還困難区域の現実

放射線防護学者の安斎育郎さん
福島プロジェクト」のメンバーとともに、
先週金曜日(16日)、浪江町の津島地区に入った。
津島地区は福島第一原発から北西方向20〜30km圏に位置し、
全域が「帰還困難区域」に指定されている。
ぼくはテレビをほとんど見ない人間だから知らなかったのだが、
トキオ(というのがそもそも判らない…)が通っていた
「DASH村」というのがこの津島地区にあるそうだ。

安斎さんらが津島を訪ねたのは
住民の要請を受けて放射能汚染の実態を調査するためだ。
津島の住民は9月末、
地区の「原状回復」と総額65億円の損害賠償を求めて
国と東電とを相手に裁判を起こした。
第一陣の原告は32世帯117人だが、
最終的には住民の大半が提訴に加わることになりそうだという。
「原状回復」とは
きちんと除染して故郷に帰れるようにしてほしいという意味だが、
その前提となる放射能汚染の実態さえ
住民は正確には把握できていないのが現実である。
そこで安斎さんら「福島プロジェクト」の出番となるわけで、
住民とともに
地区内数ヶ所の汚染状況を面的に調べることになった。
ぼくも高放射線地域に立ち入った経験はあるが、
局地的・限定的な取材に留まっていた。
そこに住んでいた人たちとともに
放射能汚染がどう広がっているのかの実態を見るのは初めてだ。

住民との打ち合わせ。画面左が原告団長の今野秀則さん。

最初に調べた場所で
いきなり85μSv/hというホットスポットを観測した。
ちょっと窪みになったところに砂が溜まっているので、
林から放射性物質を含む水が流れ出てきて蒸発した跡だろう。

エンジニアの山口秀俊さんが毎時85μSvを計測した。

家屋の裏の林の中は空間線量が10μSv/hを超えており、
道路上で概ね5μSv/hというところだ。
いずれにせよ、ぼくがいつも取材をしている楢葉や南相馬、
あるいは福島市などとは文字通りケタ違いの汚染が残っている。

エンジニアの早川敏雄さんが測定器とともに歩き回って線量を記録する。

去年の9月に大熊町の中間貯蔵施設建設予定地を取材したが、
そこの空間線量が7μSv/hというところだったから、
津島地区は原発直近の地域と同等か、
あるいはそれ以上に汚染されていることになる。

4年半放置された家は雑草に覆われ荒れ果てている。

2011年3月15日、
福島第一原発2号機から出たプルーム(放射能雲)が
北西方向に吹く風に乗ってこの土地を通り過ぎていった。
そのとき、雪となって放射性物質が降り積もったのが原因である。
それにしても、
原発から20km以上離れた
緑豊かな山里でこれだけの汚染を目の当たりにするのは、
知識として知っていたとはいいながら、やはり衝撃的だ。
放射能は目に見えないだけに、どこか非現実的にさえ思える。

汚染土を採取する原子核物理学者・桂川秀嗣さん(左)と安斎育郎さん。

地区内の数ヶ所で放射線量を測定し、
移動のあいだも車内で線量計とにらめっこしていたが、
線量は上下するものの、
ついに1μSv/h(≒年間5mSv)以下にはならなかった。
5μSv/h程度に汚染された場所はざらにあるといっていい。
撮影スタッフが積算線量計を持っていて、
東京にいるときは1日1.3μSv程度の自然放射線による被ばく、
楢葉ロケ(いわき宿泊)で1.9μSvくらいを計測している。
ちなみに京都在住の安斎さんは同型測定器で1日2.0μSv前後だ。
(地質の関係で一般に関西の方が自然放射線量が高い。)
それがこの日の津島ロケでは半日で11μSvの被ばくを記録した。

津島の人たちは除染を望んでいるが、
政府が除染目標としている0.23
μSv/h(=年間1mSv)にまで
線量を落としていくのは容易なことではない。
安斎さんは、
除染したときに剥ぎ取る土や廃棄物が膨大な量になると指摘する。
放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施設建設の目処が立たず、
政府の除染=復興計画はすでに事実上破綻しているが、
津島やその他の高線量地域の本格的な除染に着手すれば、
破綻は隠しおおせないものになるだろう。

津島の住民は全国各地でばらばらに避難生活を送っており、
地域に伝承されてきた慣わしや祭りは途絶えようとしている。
つまり、原発事故は、
営々と築かれてきた地域の歴史を断ち切ろうとしているのである。
もし津島(や他の高線量地域)に「帰れない」とするなら、
住民が新しい土地で
新しい人生を歩み始めるための腰を据えた支援策が必要になる。
同時に、歴史を抹殺した責任も改めて問われることになるだろう。
それを恐れてか、
政府は帰還困難区域の今後について明確な方針を示してはいない。
除染するような、しないような…
「問題の先送り」を決め込んでいるとしか思えない。

原発事故は様々な点で修復不可能な傷痕を地域に残す。
このブログでも繰り返し書いてきたことだが、
起きてしまえば取り返しがつかないのが原発事故である。
事故が起きたら影響が大き過ぎて対応のしようがないと言うので
「事故は起こらない」ことにしてしまったのが「安全神話」で、
これはいうなれば究極の「問題の先送り」だ。
その結果が今日の事態を招いているのに、
相変わらず都合の悪いところには目をつむって
「問題の先送り」を続ける政府、
そして、結果としてそれを容認している私たちの社会…。
福島で暮らしてきた住民のことは忘れ去られようとしている。
原発事故に起因する深刻な事態が現にあるにも拘らず
一方で原発の再稼動を進めようというのだから、
これは「愚策」という言葉で片付けていい問題ではない。
愚策には違いないが、それ以上に狂気の沙汰であり、
もっとはっきり言えば政府と電力会社の「犯罪」だとぼくは思う。

2015年10月15日木曜日

「いとしのアニー」顛末

昨夜の午前2時頃だっただろうか、
ぼくは突然の吐き気に目を覚ました。
胃液というのか、
酸っぱい液体が次から次へ口の中に湧き出してきた。
ちょうど出張中だったため、
定宿になっているいわき市のビジネスホテルのベッドで、
ぼくは酸っぱい液体を必死で飲み込みながら吐き気に耐えた。
そうこうするうちに今度は胃が重く、痛くなってきた。
やがて吐き気は治まったが、痛みの方は一向に治る気配がない。
ぼくはもともと我慢強い性質で、
かみさんにはいつも「鈍感」だと言われている。
昨夜も痛みに耐えながら眠ったのだが、
早朝にまた目が覚めてしまった。
胃は相変わらず重く、痛みが続いている。

抗がん治療をしている関係で、
副作用のため胃の粘膜が傷んでいるのは判っていた。
また、抗がん剤は骨髄にダメージを与えるので、
造血能力が落ちて、特に白血球のなかの好中球が減少している。
好中球はウィルスなど体内に入った異物を攻撃する役割を持つ。
つまり、現在のぼくは免疫力が落ちているわけだ。
その影響で症状が出ているとしたら嫌だな…
明け方のベッドで痛みに耐えながら、そんなことを考えていた。

そのうちに、天啓のように(?)頭を掠めたことがある。
…この痛みには遠い記憶があった。

20数年前のことである。
当時、釧路で暮らしていたぼくは、
深夜に突然の吐き気と胃痛に襲われた。
そのうちに治るだろうと我慢をして、
翌日からも通常通りに仕事を続け、札幌に出張したりしていた。
ところが痛みは一週間たっても治まらない。
さすがに我慢をしかねて病院に行った。
診察にあたった医師は「胃炎でしょう」という見立てだったが、
念のために胃カメラを飲むことになった。
胃カメラは初めての体験で、
担当した若い医師が不慣れなこともあって、
内視鏡が食道を通るまで酷く苦しかったことを記憶している。
医師はまだ20代半ばと思える女性で大変な美人だったが、
喉から突き上げるオエッという強い抵抗に涙ぐんでいるぼくに、
「我慢して!」と叱責を繰り返すばかり。
こいつ、医者のくせに不随意筋も知らんのか、
我慢しようと思って我慢できるわけがないじゃないか…
内心毒づきながら、
悔しいからお尻でも触ってやろうかなどと、
くだらんことを考えながら耐えた。
いま考えると彼女は研修医だったのだろう、
ようやく胃カメラが喉を通ると最初の診察をした医師が現れて、
胃の中の様子の診断を始めた。
そして、しばらくして、
「あれ?…アニサキスがいる」と少し素っ頓狂な声をあげた。
アニサキスは回虫の仲間の寄生虫で、
サケやサバ、アジ、タラ、イカなどの身に潜んでいて、
アニサキスがいるのを知らずに刺身を食べると
胃壁に食らいついて激しい胃の痛みの原因になる。
先輩が深夜に救急車で病院に運ばれたことがあったので、
ぼくもその存在は知っていた。

担当の医師によれば、
普通はその晩のうちに救急車で運ばれてくるので、
一週間も続く胃痛の原因がアニサキスとは思わなかったという。
「よくもまぁ、一週間も我慢してましたね」と
感心されたような、呆れられたようなリアクションだった。
内視鏡についたピンセットでアニサキスを摘まみ取って一件落着。
一週間も飼ったうえ札幌見物までさせたわけだから、
アニー君、もって冥すべし、という気分であった。

吐き気から胃痛に至る経緯が
そのときと似ていることに明け方になって思い当たったわけだ。
そういえば、
昨夜はいわき市内の居酒屋でカマスとサンマを刺身で食べた。
一切れが豪快に厚く切ってあるなぁと思いながら食べたのだった。
刺身を厚く切れば、
当然、なかに潜んでいるアニサキスは発見されづらくなる。
どうもそれが原因だな、と素人ながらの“診断”を下した。

朝になるのを待って、
地元の救急病院を調べ、
いわき市立の総合磐城共立病院に電話を入れ、受診した。
宿直の若い医師に昨夜来の症状を話し、
「アニサキスのときの症状と似ている」と告げた。
救急車を呼ぶでもなく、
朝になって自分でタクシーで来て、
冷静に症状と自分なりの“診断”を話す救急患者を
医師は奇妙な奴だと思ったかもしれない。
それでも内視鏡で検査をすることになって、
専門医の出勤を待って胃カメラを飲んだ。
今回の担当はベテランの男性医師で、
かなり手慣れているらしく喉を通るときの抵抗も少なかったので、
別にお尻を触ろうかとも思わず大人しくしていた。
ところが、残念ながら、
ベッドに横たわったぼくの位置からはモニターが見えない。
そのうち医師が「あ、これだな」と呟き、
横にいる研修医に「この半透明のが…」と説明する声が聞こえた。
こっちへの説明はない。
やっぱりアニサキスだったんだと、
自分の判断の的確さをちょっと誇らしい気分で口を開けていた。
ピンセットで虫を摘まみ取っているらしいやり取りが聞こえて、
やがて診察は終了。
「見てみますか?」と訊かれたので見せてもらうことにした。
ビーカーに入った水の中で、
糸のように細く白い半透明な体のアニー君が身をくねらせていた。
見ようによっては、きれいだと思えないこともない。
いま思えば(カメラを持っていたので)記念撮影すればよかった。

アニサキスを取り除いてしまえば症状はやがて治まる。
予定より1時間遅れで仕事に復帰し、
取材後に移動をして南相馬に泊まったが、
さすがに今夜だけは刺身を食べる気になれず、
アニサキスがいる気遣いのない馬刺しを肴に一杯やった。
インターネット仲間の情報によれば、
アニサキスの罹患は年間7147件というところらしい。
ぼくは日頃くじ運が極めて弱いのだが、
こういうのだけは2回も当たってしまったのが悔しい。
ちなみに、
アニー君は細いが強靭な体をしているので、
よく噛んで食べるくらいでは予防効果はないそうだ。