「いとしのアニー」顛末

昨夜の午前2時頃だっただろうか、
ぼくは突然の吐き気に目を覚ました。
胃液というのか、
酸っぱい液体が次から次へ口の中に湧き出してきた。
ちょうど出張中だったため、
定宿になっているいわき市のビジネスホテルのベッドで、
ぼくは酸っぱい液体を必死で飲み込みながら吐き気に耐えた。
そうこうするうちに今度は胃が重く、痛くなってきた。
やがて吐き気は治まったが、痛みの方は一向に治る気配がない。
ぼくはもともと我慢強い性質で、
かみさんにはいつも「鈍感」だと言われている。
昨夜も痛みに耐えながら眠ったのだが、
早朝にまた目が覚めてしまった。
胃は相変わらず重く、痛みが続いている。

抗がん治療をしている関係で、
副作用のため胃の粘膜が傷んでいるのは判っていた。
また、抗がん剤は骨髄にダメージを与えるので、
造血能力が落ちて、特に白血球のなかの好中球が減少している。
好中球はウィルスなど体内に入った異物を攻撃する役割を持つ。
つまり、現在のぼくは免疫力が落ちているわけだ。
その影響で症状が出ているとしたら嫌だな…
明け方のベッドで痛みに耐えながら、そんなことを考えていた。

そのうちに、天啓のように(?)頭を掠めたことがある。
…この痛みには遠い記憶があった。

20数年前のことである。
当時、釧路で暮らしていたぼくは、
深夜に突然の吐き気と胃痛に襲われた。
そのうちに治るだろうと我慢をして、
翌日からも通常通りに仕事を続け、札幌に出張したりしていた。
ところが痛みは一週間たっても治まらない。
さすがに我慢をしかねて病院に行った。
診察にあたった医師は「胃炎でしょう」という見立てだったが、
念のために胃カメラを飲むことになった。
胃カメラは初めての体験で、
担当した若い医師が不慣れなこともあって、
内視鏡が食道を通るまで酷く苦しかったことを記憶している。
医師はまだ20代半ばと思える女性で大変な美人だったが、
喉から突き上げるオエッという強い抵抗に涙ぐんでいるぼくに、
「我慢して!」と叱責を繰り返すばかり。
こいつ、医者のくせに不随意筋も知らんのか、
我慢しようと思って我慢できるわけがないじゃないか…
内心毒づきながら、
悔しいからお尻でも触ってやろうかなどと、
くだらんことを考えながら耐えた。
いま考えると彼女は研修医だったのだろう、
ようやく胃カメラが喉を通ると最初の診察をした医師が現れて、
胃の中の様子の診断を始めた。
そして、しばらくして、
「あれ?…アニサキスがいる」と少し素っ頓狂な声をあげた。
アニサキスは回虫の仲間の寄生虫で、
サケやサバ、アジ、タラ、イカなどの身に潜んでいて、
アニサキスがいるのを知らずに刺身を食べると
胃壁に食らいついて激しい胃の痛みの原因になる。
先輩が深夜に救急車で病院に運ばれたことがあったので、
ぼくもその存在は知っていた。

担当の医師によれば、
普通はその晩のうちに救急車で運ばれてくるので、
一週間も続く胃痛の原因がアニサキスとは思わなかったという。
「よくもまぁ、一週間も我慢してましたね」と
感心されたような、呆れられたようなリアクションだった。
内視鏡についたピンセットでアニサキスを摘まみ取って一件落着。
一週間も飼ったうえ札幌見物までさせたわけだから、
アニー君、もって冥すべし、という気分であった。

吐き気から胃痛に至る経緯が
そのときと似ていることに明け方になって思い当たったわけだ。
そういえば、
昨夜はいわき市内の居酒屋でカマスとサンマを刺身で食べた。
一切れが豪快に厚く切ってあるなぁと思いながら食べたのだった。
刺身を厚く切れば、
当然、なかに潜んでいるアニサキスは発見されづらくなる。
どうもそれが原因だな、と素人ながらの“診断”を下した。

朝になるのを待って、
地元の救急病院を調べ、
いわき市立の総合磐城共立病院に電話を入れ、受診した。
宿直の若い医師に昨夜来の症状を話し、
「アニサキスのときの症状と似ている」と告げた。
救急車を呼ぶでもなく、
朝になって自分でタクシーで来て、
冷静に症状と自分なりの“診断”を話す救急患者を
医師は奇妙な奴だと思ったかもしれない。
それでも内視鏡で検査をすることになって、
専門医の出勤を待って胃カメラを飲んだ。
今回の担当はベテランの男性医師で、
かなり手慣れているらしく喉を通るときの抵抗も少なかったので、
別にお尻を触ろうかとも思わず大人しくしていた。
ところが、残念ながら、
ベッドに横たわったぼくの位置からはモニターが見えない。
そのうち医師が「あ、これだな」と呟き、
横にいる研修医に「この半透明のが…」と説明する声が聞こえた。
こっちへの説明はない。
やっぱりアニサキスだったんだと、
自分の判断の的確さをちょっと誇らしい気分で口を開けていた。
ピンセットで虫を摘まみ取っているらしいやり取りが聞こえて、
やがて診察は終了。
「見てみますか?」と訊かれたので見せてもらうことにした。
ビーカーに入った水の中で、
糸のように細く白い半透明な体のアニー君が身をくねらせていた。
見ようによっては、きれいだと思えないこともない。
いま思えば(カメラを持っていたので)記念撮影すればよかった。

アニサキスを取り除いてしまえば症状はやがて治まる。
予定より1時間遅れで仕事に復帰し、
取材後に移動をして南相馬に泊まったが、
さすがに今夜だけは刺身を食べる気になれず、
アニサキスがいる気遣いのない馬刺しを肴に一杯やった。
インターネット仲間の情報によれば、
アニサキスの罹患は年間7147件というところらしい。
ぼくは日頃くじ運が極めて弱いのだが、
こういうのだけは2回も当たってしまったのが悔しい。
ちなみに、
アニー君は細いが強靭な体をしているので、
よく噛んで食べるくらいでは予防効果はないそうだ。

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