2015年2月1日日曜日

ジャ−ナリストであること、そして憲法9条。

昨夜は番組の編集が終わって、
いつものように月島の「岸田屋」で打ち上げた。
しこたま酔って帰って、風呂にも入らずベッドに潜り込んだ。
今朝早く目が覚めて、
ネット情報で後藤健二さんが殺されたらしいことを知った。
怖れていた事態だった。
想定していなかったわけではない。
しかし、現実になってみると、やはりショックだった。

先日のブログにも書いたように、
ぼくは今回の事態は
安倍首相の軽率な言動が招き寄せたものだと考えている。
しかし、不思議なほど、安倍さんへの怒りは湧かなかった。
ただただ辛く、悲しかったのである。
戦場の現実を伝えることに尽した
一人のジャーナリストの「戦死」は、
ぼくにとって「怒る」には重すぎることだった。

後藤さんの死が報じられると
安倍首相は「イスラム国」を非難して、
「その罪を償わせるため、国際社会と連帯していく」と語った。
「その罪を償わせる」???
…この人の言葉は、なぜこうも空虚に勇ましく、軽いのだろう。
「償わせる」などという喧嘩腰の言葉をなぜ使う必要があるのか。

しかし、そのことにすら、怒りよりも悲しみが先に立った。

ぼくが「悲しい」理由は、
たぶんこれが「戦争」だと認識しているからだ。
「戦争」は必然的に多くの人たちの「死」を意味する。
銃弾に当たっての死であろうと、
無差別爆撃による死だろうと、
あるいはナイフで首を掻き切られての死だろうと、
それが残虐な「死」であることには何の変わりもない。
だから、戦争だけは絶対に避けなければならないのだが、
ぼくたちはどうやら
「対テロ戦争」という名の戦争に巻き込まれてしまったらしい。
たぶん亡くなった後藤さん自身が
最も避けるべきだと考えていた事態だろうと思う。

ぼくは残忍な「イスラム国」を支持しない。
しかし、彼らが「犯罪者集団」であるとも思っていない。
彼らは中東の歴史が生んだ鬼っ子である。
鬼っ子が生まれるには、それなりの理由がある。

中東は欧米列強の利害に翻弄され続けてきた歴史を持つ。
フサイン=マクマホン協定(1915)、
サイクス=ピコ協定(1916)にバルフォア宣言(1917)、
そしてイスラエルの建国(1948=パレスチナ難民問題の発生)。
近くはアメリカ(今回と同じく「有志連合」)が起こした
架空の「大量破壊兵器」所有を理由にしたイラク戦争(2003)。
イラク戦争後の占領政策の失敗が
現在の「イスラム国」を生み出したことは知られている。
そして、いまも「有志連合」の爆撃が多くの無辜の市民を殺傷し、
そこから生まれた憎しみが日々テロリスト予備軍を作り出している。
…どうして軽々に「対テロ戦争に連帯」などと言えようか。
そしてその一筋縄ではいかない現実を
誰よりもよく知っていただろう一人が他ならぬ後藤さんだった。

ジャーナリストである後藤さんは
声高に叫ばれる「正義」を決して信じなかったはずである。
「イスラム国」の正義はもちろん、アメリカの正義も。
ぼくもジャーナリストの一人として、
声高に「正義」を叫ぶような真似はしたくない。
勇ましい言葉を信じることなく、
異なる「正義」の狭間で苦しむ人たちの悲しみに寄り添いたい。
ぼくは後藤さんほど危険な現場にはいないが、
ジャーナリストとしての姿勢は
あらゆる「現場」を貫いて同じだと思っている。
ぼくの「現場」である福島においても、
それが何であれ「正義」の旗を振りまわしたくない。

悲しみの果てに、
ぼくはなぜか「憲法9条」のことを考えた。
正直いえば、ぼくはガチガチの護憲主義者ではない。
日本国憲法が金科玉条とは思っていない。
しかし、後藤さんの死に際して、
いま憲法9条を読み直さなければならない、と思ったのである。

憲法9条は、
「国際紛争を解決する手段」として
「武力の行使ないし武力による威嚇」を禁じている。
それは一見非現実的な理想主義に見えて、
この世には「絶対の正義」など存在しないという
極めてリアリスティックな認識に基づいているのではないか。
かつての日本が起こした戦争もまた、
主観的には「自衛」に基づいたものだった。
その結果、自国民はもとより、
「敵国」とされた国の人々、アジアの民衆を多く傷つけた。
その誤ちを繰り返さないために、
人殺しを正当化できるほどの「正義」はないと胸に刻んだ。
その痛切な理想に、ぼくたちはもう一度立ち返るべきだと思う。
後藤さんの死を無駄にしないためには、
ぼくたち自身が憎しみの連鎖から距離を置くことである。
戦争を放棄した日本人にしかできない「国際貢献」があるはずだ。
そして、それが、
故人の遺志にも沿うことだろうとぼくは信じている。

なんとも危ない、崖っぷちの時代である。
これから日本が進む道に踏み迷わないために、
敢えて憲法の前文をここに書き写しておきたい。
戦後の日本人の原点を確認し、自らを勇気づけるためでもある。
確かに生硬な日本語だとは思うが、
「みっともない憲法」などでは断じてない。

日本国民は、
恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、
専制と隷従、圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。

日本国民は、国家の名誉にかけ、
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。



2 件のコメント:

  1. 翌朝の新聞を見て やっぱり 一番 気になったのは
    「その罪を償わせる」というセンテンス・・・
    米国が誤爆を正当化するためのワードとしては
    ありそうだけど・・・
    まさか 自分の住んでる国の 代表が そんなことを???

    しかもタイミングとしては ダメ押しだし。。。

    戦後・・・・
    日本が ほんのわずかの人間たちによって イメージが変えられていくという
    変えてしまうことも 可能だということを 知った日でも ありました。 

    戦争に加担した 日本の仏教界は 今こそ 「何か言え!」と
    浄土真宗の小生は 思ってしまいます。  笑。

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  2. はじめまして。
    この事件が起きてから今まで、ずっと心にモヤモヤしていたことが、この記事を拝見して初めてストンと落ちたような気がします。
    何かおかしいと思いながら、それを上手く自分に説明できずにいたことを、ようやく整理できました。また「やはり自分は間違っていない」という自信を持つこともできました。
    ありがとうございます。

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