霧の釧路にて。

6月14日放送の東北Z、「『復興』はしたけれど 〜神戸・大正筋商店街の18年〜」の映像編集がきのうで終わった。今回はイレギュラーなスケジュールで、ナレーション入れ・完プロ(字幕入れ)は再来週になる。

最近、けっこうストレスの塊になっているので、これ幸いと釧路で何日かを過ごすことにした。釧路の自宅で静かな時間を過ごすことは、ぼくにとって何よりのリフレッシュになるのだ。なんやかやでマイルが貯まっているので、今年は3回くらいまでは無料で釧路に行ける。ありがたいことだ。

午後のANAに乗る予定で、ラウンジで弁当を食べているとアナウンスがあった。濃霧のため、釧路空港に着陸できない可能性があるという。冗談じゃないぞ、と思う。いまからおよそ30年前、ぼくが新人だった頃の釧路空港は霧による欠航が多く、海霧のシーズンである夏に航空便で出張するのはリスクが大きかった。

東京出張は国鉄(当時)を乗り継いで行くのが原則で、汽車賃のほか一泊の宿泊費が出たものである。
しかし、カテゴリー3という計器着陸装置の導入により、もう長いあいだ、霧で欠航になったという記憶はない。


釧路が近づいてきたところで、着陸可能との機内アナウンスがあってホッとする。窓からみると、霧が海側から侵入して陸地を呑み込もうとしている様子が見えた。霧は上空から見ると地を這う雲のように見える。飛行機は霧のない内陸側から滑走路に進入するわけだ。


霧が出ると気温は下がる。空港にあった寒暖計は11.0℃を表示していた。バスで市内に入ると、釧路川の河口あたりは深い霧に包まれている。もっとも、昔の海霧はこんなものではなかった。視界が10mほどしかないこともあり、水滴が顔に当たるのが感じられたものだ。こうした深い海霧を地元の人たちは「じり」と呼んだ。


陰鬱な霧は人々に嫌われた。北海道の人たちは霧ゆえに釧路に住むのを嫌ったものだ。しかし、実のところ、ぼくは霧が好きだった。ぼくが釧路を愛し、この街で暮らしたいと思った理由の何分の一かは霧である。霧が出た日の陰々とした静けさ、遠く聞こえる霧笛の音は奇妙にぼくを慰めてくれた。

「アグレッシブ」と表現したいほどネアカなB型女性と結婚したので調子が狂ってしまったが、ぼくは本来、独りでいる時間を好む、根暗な人間である。
生まれ故郷の山陰の、重く垂れ込めた雲を背負って生きているのだ(爆)。ところが、テレビのディレクターというのは極めて“社交的”たらざるを得ない仕事である。取材からスタッフ・ワークに至るまで、人間関係を幾重にも織りなしてようやく番組が完成する。

ぼくは34年前にこの仕事を始めてすぐに、本来の自分には向いていない職業だと気がついた。しかし、この仕事が好きだったし、苦手とする部分に積極的に挑戦したいという気概もあった。若かったのである。当然、無理をする部分もあって引き裂かれたが、東北海道の沈欝な風土が疲れたぼくの神経を癒してくれた。

それから30数年が経ち、仮面があたかも自分の顔になってしまったかのように、ぼくはごく自然に“社交的”な人間として振る舞っている。しかし、ときどき地金が顔を出して、矢も盾も堪らず釧路へと“遁走”したくなるのである。


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