2013年5月24日金曜日

映画「約束」を観て考えたこと。


近所の映画館「フォーラム仙台」で、
東海テレビ制作の映画「約束」を見た。
冤罪と言われる名張毒ぶどう酒事件をテーマに、
仲代達矢が“犯人”奥西勝を演じるドキュメンタリードラマだ。


東海テレビは
名古屋で極めて意欲的な活動を繰り広げている放送局で、
「約束」と同じ斎藤潤一さんが監督した
一昨年の「平成ジレンマ」で劇場映画に進出をした。
戸塚ヨットスクールを題材とした「平成ジレンマ」は、
ドキュメンタリーとしての視座が的確なのに加え、
地域に根を生やして踏ん張る
地方民放ならではの蓄積が圧倒的で、
同じドキュメンタリーの作り手として脱帽する思いだった。
今回の「約束」はちょっと微妙で、
失敗作なのではないかと思いながら観た。
見終わって必ずしも失敗作ではないと考えを改めたが、
やはり納得できないところもある。
それは
主としてドキュメンタリードラマという形式からきたもので、
事実とフィクションを
どう描き分けるかについての問題である。
「表現」や「メディア」のあり方について、
様々な思考を誘発する映画で、それについて書いてみたい。

死刑囚・奥西勝が暮らす拘置所に
カメラを入れることは現実にはできない。
その空白をドラマで埋めようという戦略は、たぶん正しい。
かなり分厚い取材をしたと思うのだが、
拘置所の生活描写のディテイルの描写には説得力がある。
一人の人間が物証もなく、
自白だけを根拠に罪を問われ、
死刑囚として50年間独房で暮らすことを強いられてきた。
その事実の堪え難いまでの重みを
仲代さんが人間的な想像力を駆使して演じてみせる。
この部分は、文句なく素晴らしい。
ドキュメンタリードラマという形をとることでしか
表現できなかったものだろうと思う。

毒ぶどう酒事件の現場を再現した部分はそれに比べて弱い。
ドラマの専門家ではないだろう齋藤さんは、
突然日常に侵入してきた修羅の瞬間を描き切れなかった。
しかし、それについては、いい。
問題は、樹木希林が出てくる母親のパートである。

樹木さんの演技や演出の問題ではない。
なぜこのシーンを必要としたかについて、
ぼくは作り手の一人として大きな疑問を持つ。
母親が死刑囚とされた息子を思う気持は理解できる。
しかし、それは、
奥西さんが殺人を犯したかどうかという
根幹の「事実」にはなんら関わりがないことである。
母親が息子に宛てた500通に及ぶ手紙は現存する。
さらに、
生前の母親本人が思いを語った映像も残されている。
屋上屋根を重ねるようにして
敢えてドラマとして母の思いを表現した理由は何か?
冷たく言い切ってしまえば「お涙頂戴」であり、
さらにいうなら「印象操作」だ。
奥西さんの無実を強く印象づける補強材料として、
母親の悲しみを殊更にクローズアップした。
ジャーナリズムとして、これは「逸脱」ではないか。

メディア・リテラシーというものを、
情報の受け手はもちろん、
作り手も強く意識しなければならない時代である。
ネットなどでは、
マスメディアは情報を「編集」せず、
ありのまま提示すべきだという議論もある。
もちろんこれは
メディアというものを表層的に捉えた極論で、
例えばぼくが現在作っている番組について云えば、
43分の放送時間に対して
素材となる映像は20時間を超える。
もっと長時間の撮影を行っているケースはざらで、
それをすべて公開することなど現実としてあり得ない。
また、いうまでもなく、
「撮影したもの」自体が
膨大な「事実」の一断面を切り取っているに過ぎない。
「事実」を「ありのまま」に提示することなど、
映像と活字とを問わず、
メディアにおいて全くあり得ないことなのである。
あらゆるメディアは、
(マスであろうが、パーソナルであろうが)
事実の「編集」(再構成)を前提としており、
その意味で「公正中立」など本来あり得ないことだ。
だから、ぼくは、
斎藤さんら東海テレビのスタッフが、
奥西さんの冤罪を強く主張することに異議はない。
ジャーナリズムが事実の再構成を前提としている以上、
それは必然的にメッセージ性を内包することに、
ジャーナリストは無自覚であってはならない。
問題は、
メッセージを扱う手つきが「フェア」かどうかだ。

ぼくは「約束」を観ていて、
少なくとも3ヶ所のナレーションが引っかかった。
「逆撫でされた」と言い換えてもいい。
メモを取りながら観ていたわけではないので記憶だが、
ひとつは
「検察は時計の針まで進めてしまったのです」という表現、
さらに再審決定を破棄した裁判官が
「このあと東京高裁に栄転しました」というところ、
そして、ラストコメントの「司法は何を狙っているのか」。
ナレーションに作り手の意味づけが過剰に入り込み、
一種の「決めつけ」になっている。
作り手の「怒り」があらわに出過ぎているのである。
このナレーションは事実の提示を逸脱して、
「アジテーション」に堕していると言わざるを得ない。
アジテーションは、
あらかじめ同じ立場に立つ人を
鼓舞することはできるかもしれないが、
立場の異なる人を「説得」することはできない。
作り手の「怒り」が表面に出すぎると、
伝えるべきメッセージはむしろ希薄になってしまう。

母親を描くドラマ部分が
アンフェアな印象操作だと感じさせる点、
そして、ナレーションにおける過剰な意味づけ。
それがこの映画の訴求力を減じているようにぼくは思う。
ひとことで言えば、
テーマを微妙に「嘘臭く」してしまっているのである。
もちろん、それは、
ぼくが「作り手」だから感じることかもしれない。
しかし、現在の観客(情報の受け手)は、
そうしたことに敏感になってきているのではないか。
東海テレビが営々として撮り溜めてきた映像、
斎藤さんの手によって再構成された
過去の「事実」の集積としてのドキュメンタリー部分が、
圧倒的な説得力をもって
奥西さんの無実を訴えかけているだけに、
ぼくは作り手の抑制の欠如が惜しい、と思うのである。

ぼくはテレビ・ドキュメンタリーの作り手として、
メッセージとして何を伝えるべきかを常に考えながらも、
表現の「抑制」を常に心がけている。
半ばは、ぼくの美意識の問題かもしれない。
お笑い芸人が自ら笑ってしまうのは下の下であり、
優れた落語家は
にこりともせず観客を爆笑させる…というような。
しかし、
「編集」による「意味」の再構築と
「印象操作」の境界線は常に微妙であり、曖昧で、
ぼくたちは、いつも綱渡りをしているようなものだ。
そして、ときどき視聴者から、
なぜ悪いものをはっきり「悪い」と言わないのだと
お叱りを受けることもある。
ぼくはそのたび、
「それを言っちゃァおしまいよ」と
車寅次郎のような顔をして呟くのである。



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