2012年12月29日土曜日

四十年後の「仁義なき戦い」

単身赴任先の仙台に
一人でおいておくと何をするかワカラナイ、
妻の考えようによってはもっともな危惧の下、
東京に拉致られて自宅で軟禁生活を送っている。
特にすることといってもないので、
DVDで「仁義なき戦い」シリーズの1〜4作を見直した。
つまり、笠原和夫が脚本を担当した回で、
このシリーズは実質的に「頂上作戦」で完結している。
広島の覇を競って抗争した
広能(菅原文太)と武田(小林旭)が、
裁判所の雪の吹き込む寒々とした廊下で
「間尺にあわん喧嘩したのう」と呟くシーンで、
やくざたちの戦後史は
重い徒労感とともに終わっているのだ。
戦後、闇市と青空の解放感のなかを
暴力を武器にのし上がっていった若者たちは、
互いに分断され生き残りを賭けて争い、
ある者は殺され、
生き残った者たちもいつしか年老いた。
社会は高度経済成長の時代に突入し、
市民社会の秩序の中に画一化されていく。
結局、何も変わらなかった…という徒労感だけを残して。

「仁義なき戦い」は1973年、正月第二弾として封切られた。
ぼくの記憶が間違っていなければ、
正月映画は高倉健の「昭和残侠伝 破れ傘」で、
仁侠映画ブームの象徴とも言えるこのシリーズは、
結局、これを最後に打ち切りとなった。
この前年、
藤純子(現在の冨司純子)は人気の絶頂期で結婚・引退、
高倉健、鶴田浩二の両看板は興行的な神通力を失ない、
仁侠映画の時代の終焉は誰の目にも明らかだった。
しかし、「仁義なき戦い」が、
実録やくざ映画路線を切り開く大ヒットになるとは、
公開時点において誰も予測してはいなかったはずである。

その年、ぼくは高校二年生だった。
淀川長治さんのお世話になって
テレビの洋画劇場から映画ファンになったぼくは、
高校生になってようやく日本映画を見始めたところだった。
前年に初めて「やくざ映画」を観ている。
深作欣二の「人斬り与太  狂犬三兄弟」で、
破れかぶれの人間像、自棄っぱちの迫力が、
見終わって時間が経つとともに
ぼくの中で異様な生々しさとして膨れ上がってきていた。
その深作の新作だから観に行ったのである。
仁侠映画に間に合わなかったぼくは、
その時点で笠原和夫の名は知らなかった。
笠原の脚本による「仁義なき戦い」(第一作)は、
よくまとまっているだけ、
「狂犬三兄弟」ほどの型破りの迫力はないように思えた。
このシリーズの(笠原脚本の)本当の凄さを知ったのは、
秋に第三作「代理戦争」を観たときである。
その後このシリーズは何度となく見直しているが、
「代理戦争」が最高傑作であるという確信は
公開から40年を経ようとしているいまも全く揺るがない。
高校生とはいいながら、
結構いいところを見ていたものだと思う。
受験勉強をほっぽり投げて
映画を観続けていただけのことはある。

このシリーズが作られた1973年前後といえば、
日本の高度経済成長が終わりに近づき、
多くの矛盾が顕在化していた時期に当たる。
(翌年のオイルショックで経済成長の息の根は止まる。)
時代の閉塞感、無力感は高校生だったぼくにも切実だった。
数年前に高揚した全共闘運動は見る影もなく衰退し、
連合赤軍事件、「総括」という名の仲間殺しに落着していた。
無気力、無関心、無責任の「三無主義」という言葉が、
キーワードのように語られる世相だった。
全共闘を下から見ていた世代のぼくは、
その無残な敗北と変質を目の当たりにしていたのである。
「結局、世の中は変わらない」のではないかという
絶望感にも似た思いを抱いていたぼくは、
「仁義なき戦い」シリーズの世界観にのめりこんでいった。

「仁義なき戦い」シリーズは
いまもある種カルト的な人気を誇っているが、
いまこの映画を観る若い人たちに
ピンと来ないのではないかと思う点が二つある。
ひとつは、
舞台になった時代の記憶がいまだ生々しかったことである。
第一作の背景になった
戦後闇市(呉抗争事件)となるとさすがにぼくは知らないが、
第三〜四作では物語は1960年代に突入しており、
封切り時点からいえば「つい10年前の話」である。
当時、広島に住んでいたこともあって、
第三〜四作に出てくる「打本」(加藤武が演じた)が
「柄が悪いから乗らない方がいい」と言われていた
「紙屋町タクシー」の社長であることはすぐに判った。
「完結編」に出てくる映画館前の襲撃事件に至っては、
直近ともいえる1971年のことであり、
流れ弾に当たった女性が大怪我をしたのを
中学生だったぼくは新聞記事で記憶していた。
ともかく、「昔話ではなかった」ことは大きい。
「頂上作戦」のラストに漂う色濃い徒労感は、
若いぼくにとっても
「同時代の感情」に他ならなかったのである。

もうひとつは(結局は「同じこと」なのだが)、
「仁義なき戦い」シリーズが
天皇制批判を隠しテーマとしていたことである。
次々に死んでいく若者たちを尻目に
卑怯未練に最後まで君臨し続ける山守親分(金子信雄)が
昭和天皇のカリカチュア(戯画化)であるのは、
高校生だったぼくにさえ、ただちに読み解けることだった。
占領下の廃墟と焼跡から始まった日本の戦後史、
三井三池などの労働争議、六十年安保、
全共闘による学園紛争、反公害闘争などの戦いがあり、
一方では高度経済成長を成し遂げ、
それなりに波乱万丈に様々なことが起こったはずなのに、
気がついてみれば、
戦前と何ら変わらぬ権力構造が温存されているという徒労感。
A級戦犯だった岸信介(安倍晋三の祖父)が首相になったのは
この時点からほんの15年ほど前のことでしかなかった。
もうじき戦後30年の節目を迎えようとしていたこの時期、
笠原・深作による戦後史の総括は限りなく苦い。

「仁義なき戦い」が天皇制批判を影のテーマにしていたことが
ぼくの牽強付会でも何でもないことは、
深作は「仁義なき戦い」の直前に「軍旗はためく下に」、
笠原は「仁義なき戦い」の直後に「あゝ決戦航空隊」、
二人の作家がともに
「仁義なき戦い」シリーズと前後して
天皇の戦争責任を正面に据えた映画を作っていることを
傍証として指摘すれば充分だろう。

「仁義なき戦い」から30年を経た
2002年12月に脚本家・笠原和夫が死去。
後を追うように翌年1月、映画監督・深作欣二が亡くなった。
ちょうど10年前の話である。
ぼくは、当時、担当していたETV特集で、
二人を追悼する番組
「『仁義なき戦い』をつくった男たち」を制作、
NHK史上初めて
「やくざ映画を正面から取り上げた番組」として、
内部的には幾分かの物議を醸した(笑)。
ドキュメンタリー屋のぼくとしては異色の番組だが、
気障に言えば自分の青春の決算であり、いまでも愛着がある。
番組に出演してくださった山根貞男氏とともに
「『仁義なき戦い』をつくった男たち」(NHK出版)を上梓、
これがいまのところぼくの唯一の「著書」である。

それから「一昔」というに等しい歳月が流れ、
封切から40年を記念してのことなのだろう、
「仁義なき戦い」のブルーレイDVDボックスが発売された。
特典映像として、
ぼくの「『仁義なき戦い』を作った男たち」が付いている。
往時の制作担当者に1セットくらい送ってくるかと思ったら、
東映はケチだから梨の礫だった(笑)。
もっともブルーレイ再生機を持っていないので、
送ってこられても困っていたのだが…。
そんなことも無意識のうちに働いていたのだろうか、
年の瀬も押し詰まってからシリーズ四作を見直してみた。
シリーズの通奏低音ともいうべき徒労感は、
40年が経ったいまなお生々しく、
「結局、何も変わらなかった」現実が酷く苦いものに思われた。

2 件のコメント:


  1. 熱いね・・・

      兄さん!

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    1. おうよ、
      わしら広島もんはイモじゃゆうてもよぅ、
      旅の下風に立ったことはありゃぁせんので。
      なめたらあかんぜよ…って、これは違うか(笑)。

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