2009年6月24日水曜日

本田靖春「誘拐」「不当逮捕」

本田靖春さんの「誘拐」('77)
「不当逮捕」('83…ともに講談社文庫)を相次いで読み了えた。
「誘拐」を読み始めたのは、
映画「一万三千人の容疑者」を観たことから
「吉展ちゃん事件」を改めて知りたくなっなったからであり、
「不当逮捕」は、
「誘拐」をAmazonに注文するときに、
云わばついでに取り寄せたものだ。
ともに取材力、構成力、文章力の
すべての面で卓越した重量級のルポであり、
ジャーナリズムの場に禄を食む後進の一人として、
自分の未熟さを突きつけられたに等しい衝撃を受けた。

「誘拐」は、
吉展ちゃん事件の犯人である
小原保が生まれ育った福島県の山村の、
当時まさにテイク・オフしようとしていた
日本の高度経済成長から全く見放された貧困の描写が凄まじい。
本田さんは、事件の経緯を追いながら、
日本の戦後史の一断面を鮮やかにあぶり出した。
事件の当日、
誘拐事件の舞台となった
入谷南公園に集まっていた人たちの描写から始まって、
物語は縦横に展開しながらも、
1963年という一点から
戦後史を俯瞰しようとする著者の狙いが全編を貫いている。
事態のディテイルに入り込んでいく「虫の眼」と、
時代を俯瞰する「鳥の眼」を併せ持つ全体設計が見事で、
これはとても敵わないと思う。
刑務所で死刑を待ちながら
仏教に回心していく小原の描写も印象深く、
いま手許に本がないので引用はできないが、
彼が獄中で詠んだ短歌も読む者の胸に食い込むものだ。
また、映画「一万三千人の容疑者」ではまるで解らなかった、
身代金受け渡しの現場で
警察が小原をみすみす取り逃がしてしまった理由も
このルポでは明確である。
要するに、
身代金を持った吉展ちゃんのおかあさんは
車で現場に向かったのに対し、
張り込んでいた警察官たちは
走って行ったので間に合わなかったのだ。
現場責任者の判断ミスなのだが、
なんだかマンガみたいな話である。

「不当逮捕」は「誘拐」以上の構築力を持った傑作で、
売春禁止法成立前夜の混乱期に
業者から政治家への贈収賄をスクープした読売新聞の立松和博記者が
名誉棄損罪で逮捕された事件を扱っている。
本田さんは当時読売新聞社会部に属する駆け出しの記者であり、
大先輩の立松には殊更可愛がられていて、
逮捕当夜も家族と一緒に面会に行ったりしている。
そうした個人的な体験や思い入れを交えながらも、
本田さんの筆は、冷静に、
激変しつつあった当時の時代情勢を浮かび上がらせていく。
ひとつの事件を掘り下げることで
「時代」を丸ごとに描こうという意図は、
「誘拐」以上に成功している。

立松記者は検察内部に独自の情報網を持ち、
昭電疑獄事件などで
他社を切歯扼腕させたスクープを連発したスター記者である。
その彼が逮捕された背景には
戦前に端を発する検察内部の激しい派閥抗争があるのだが、
本田さんは単にそうした裏事情を明らかにするに留まらず、
その背景にある時代の変化を克明に描き出す。
昭電疑獄事件において
時の政権を瓦解させるところまで検察(特捜部)がやれたのは、
この事件がもともとGHQ内部の暗闘から明るみに出たものであり、
占領軍の後ろ盾があったからである。
そして、立松記者がスクープを連発できたのは、
戦前に裁判官だった父親の縁もあって
検察中枢と個人的な信頼関係で結びついていたからだ。
それが、講和(独立)により、
フリーハンドを得た日本の政治権力は、
検察が政治に対して牙を剥かないよう支配力を強めていく。
(その象徴的な事件が、
 犬養法務大臣の指揮権発動で潰えた造船疑獄事件である。)
そして、売春疑獄(…というのだろうか?)が明るみに出たのは、
保守合同がなり、
いわゆる「55年体制」の
自民党一党独裁体制が盤石となった時点でのことだ。
「逆コース」という言葉があった通り、
保守政権に呼応する検察内部の一派
(戦前の「思想検察」の流れを汲み、戦後はパージされていた)は、
立松記者を逮捕し
検察内部のニュースソースを明らかにさせることで、
対立派閥(特捜部)を追い落とそうとしたわけである。

立松記者が
「ニュースソースの秘匿」という
新聞記者としての大原則を守り抜いたことで、
「思想検察」派の目論見は水泡に帰すのだが、
読売新聞社は
記事を全面的に取り消すことで時の権力との妥協を図り、
誤報の責任を取らされる格好で
処分された立松記者は失意のうちに死ぬ。
本田さんはそこに、
組織に属しながらも
一匹狼的に行動してスクープを狙う
「事件記者たちの時代」の終焉という、
もうひとつの時代の変化を読み取っている。
以降、マスコミはチーム・プレイを重視する方向に舵を切り、
管理体制が強化され、
新聞記者は(もちろん、テレビの世界も同じことだが)
次第にサラリーマンとしての性格を強めていく。
そして、そのことが、
本田さんが読売からスピンアウトする原因にもなっていったのだろう。

立松逮捕劇を主導した当時の東京高検検事長(検察のNO.2)は、
その後、検察内部の権力抗争に敗れ、
退職後は自民党から政界に転じた。
その選挙違反を
対立派閥の特捜部が徹底的に暴き出して社会的に葬り去る。
本田さんのルポ「不当逮捕」は、
事件の一方の当事者の、ある意味では残酷な結末を描き、
他方、“窓際”に追いやられた
かつてのスター記者の淋しい死を描き出して終わる。
「戦後」という時代の終焉を立体的、重層的に描き出したものであり、
読後感は圧倒的である。

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