お墓の話

ぼくの年代の男どもが集まると話題は概ね三つに集中する。病気の話(病気自慢?)、親の介護の話、そしてお墓の話だ。ぼく自身、まだ死ぬ予定はないが、最近は将来どこに眠るのかを考えることが多くなった。そして、先日、北海道釧路市にある墓地を“下見”に行った。


訪ねたのは釧路湿原を望む高台にある公営墓地・北斗霊園。釧路の我が家からけっこう距離があるが、近くのバス停から乗り換えなしで行けるので便利は悪くない。


芝生に名札だけが並ぶ合同供養墓所なら一人30万4000円。


このタイプは永代供養で、管理費も要らない。つまり、死後、子どもや孫に迷惑をかけずにすむ。ただ一ヶ所に埋葬するのは一人なので、人数分をあらかじめ並びで買っておいた方がよさそうだ。家族で入る従来型の規格墓地なら基礎がついて82万8400円(4.5㎡)から。墓石を建てれば百数十万円ということになるのだろう。


ぼくは横型墓石のこのタイプが気に入ったのだが、
すでに新規の分譲(というのかな?)は行なっていない。何らかの事情で返した墓地なら2割引で手に入るらしいが、「お墓の中古」というのは嫌う人が多いという。ぼくは気にしないけれど…。


墓石を建てない樹木葬の墓地もある。これはこれで悪くない気がする。好きな形の墓石を建てられる自由墓地は4.5㎡で58万円。こちらは基礎から作らなければならないので、最終的にはどれくらいの金額になるのだろうか?いずれにせよ、お墓というのは安いものではない。

ぼくの生まれは、釧路からほど遠い島根県松江市である。父親の転勤で広島市に移り、大学の卒業まで広島で育った。就職後は北海道での勤務が長く、老後の住み処にするつもりで釧路に家を建てた。今年の初めに定年を迎えたが、妻が東京で仕事をしているので、目論見通りに北海道移住というわけにはいかなくなった。長男だが、松江にも、両親のいる広島にも戻るつもりはない。

思えば、お墓は伝統的な「家制度」と直結している。人が生まれた土地を離れずに一生を過ごした時代、あるいは長男だけは、例え進学や就職などで一度は故郷を離れても、最後には帰ってきて「家を継いだ」時代の産物である。いまのぼくのように“根無し草”の人生を送ることは前提とされていない。

祖父母の墓は生まれ故郷の松江にある。両親は幸い、ともに米寿を迎えようといういまも健在だが、
広島に家を買って暮らしている。いまさら松江に帰ることは考えていないはずだ。死後、どこに眠るかは、やはり生まれ故郷を離れて暮らしてきた両親の問題でもある。やがて親の死という避け難い事態に立ち至ったとき、ぼくと弟は墓をどうするかという問題に直面することになる。

故郷の松江に墓を作ったとしても、ぼくが元気なうちはいいが、ぼくが死んだ後はどうなるのか?うちの一人息子は松江には行ったことすらないのだ。それでは広島か?弟夫婦は広島に住んでいるが、二人の娘は故郷を離れ、一人は福島の男性と結婚した。
ぼくらの次の世代には広島には誰もいなくなってしまうのは明らかである。それを考えてのことだろう、父は散骨して欲しいというが、家族の気持ちとしてそれにはいささか抵抗がある。

実はぼく自身も、死んだら大好きな海に散骨して欲しいと考えていた。死後はさっさと忘れ去られるのが一番で、墓など必要ないと思い、なんなら遺骨を「燃えるゴミ」に出しても結構だと(笑)。しかし、妻に訊くと、やはりお墓が欲しいという。遺された者が死者を偲ぶよすが、ということなのか。妻は上海出身で、上海は伝統的に個人墓なのだが、「死んだらあなたと同じお墓に入りたい」などと
殊勝なことをいってくれる。であれば、やはりどこかにお墓を確保するしかあるまい。場合によっては両親をそこに葬ることも考えながら…。

釧路で墓地を見に行ったのはそんな理由からである。ぼくが死んでも釧路の家は残るから、(現在リフォーム中で、あと30年は使えるだろう)息子が結婚して子どもでも出来れば、夏休みにでも家族で訪れる別荘として役に立つ。避暑には絶好の気候だし、観光やアウトドアの拠点として、釧路の家はけっこう利用価値が高いはずだ。そのとき、ついでに墓参りでもすればいい…と考えた。妻が息子に話したところ、息子もそれでいいと答えたという。

自分の死後についてあれこれ思い悩むことになろうとは、若いうちは夢想だにしなかったことである。
現実問題として、それなりのお金も必要になる。東京のマンションのローンもまだ残っているというのに。故郷を棄てた転勤族の身には「悠々自適の老後」など夢のような話だと身にしみた。

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