地方から見つめる戦後史の〝闇〟(上)

10月20日、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター主催の
「公開講座 市民アカデミア」においてお話をさせていただいた。
2014年の拙作
「戦後史証言 下北半島・浜は核燃に揺れた」を素材にして、
地方の視点から見つめ直した日本の戦後史について
自分なりの整理を試みたつもりである。
この講座のために作ったレジュメがあるので、
いくらか補筆のうえ、このブログでも公開しようと思う。
なお、内容はそれなりに膨大になるので、
1945年(終戦)〜1974年、
1975年〜2004年の2回に分けての公開としたい。


◎青森県下北半島の戦後史は極めて特殊であるとともに普遍的だ。 

 下北半島の戦後史を
 「三つの戦後史」の重なりあいのなかに見つめたい。
 ひとつは言うまでもなく、
 本州最北端の寒村が
 むつ小川原開発構想(1969)に翻弄され、
 住民を真っ二つにする激しい対立の末、
 現在の〝原子力半島〟に至るまでの地域抗争史である。
 いまひとつは、その背景にある日本の地域政策史で、
 地方が衰退していく過程をトレースする。
 さらにもうひとつは、
 やがて福島原発事故(2011)を招くことになる
 日本、あるいはアメリカの、原子力開発の裏面史である。
 
 こうした歴史は、
 日本の多くの地域の戦後史、
 例えば福島県浜通りの歴史とも一脈を通じ、
 一方で、普天間基地の辺野古移転をめぐる
 沖縄の現在の情況を想起させずにはおかない。
 下に掲げる年表は、
 上記番組のために作成した下北半島の戦後史年表をもとに、
 「地域政策の戦後史」と
 「原子力発電の戦後史」の項目を新たに付け加えることで、
 より立体的な把握をしようとの意図の下に作られた。
◎戦後開拓

 日本の戦後地域史は「戦後開拓」から始まる。
 食料増産と満州などからの引揚者、復員軍人ら、
 失職者660万人の就業対策として始まったものである。
 しかし、開拓地は、多くが機械的に割り振られたため、
 土質、冷涼な気候など、条件の厳しい場所が多く、
 後に工業用地(鹿島)、空港(三里塚)、
 リゾート(岩木山麓)などに転用された土地も少なくない。
 下北半島でも、六ヶ所村庄内、上弥栄などで、
 戦後開拓が行われた。
 上弥栄は後に「むつ小川原開発」用地に含まれ消滅する。
 (現在は石油備蓄基地になっている。)
 庄内は酪農に転換して現在も残っている。
 後に六ヶ所村村長を務める土田浩氏(故人)は、
 満州からの引揚者で、
 庄内開拓集落のリーダーだった人物である。
 
◎MSA小麦=アメリカの影

 日本の戦後史には随所に〝アメリカの影〟が見え隠れする。
 地域政策上重要なのは、
 まず1954年のMSA協定(日米相互防衛援助協定)であろう。
 その名の通り、防衛に関する協定だが、
 そのなかにアメリカの余剰農産物を日本が購入する
 農産物購入協定が盛り込まれている。
 日本は'54年、小麦(60万トン)のほか大麦、脱脂粉乳など、
 総額5000万$の農産物をアメリカから購入。
 代金のうち4000万$は、
 軍事援助として自衛隊創設、再軍備のために使われた。
 翌’55年は8500万$、’56年は6580万$で、
 代金は在日米軍基地増強にあてられた。
 
 日本政府は購入した大量の小麦等を消費するため、
 アメリカの協力を得て「栄養改善運動」に着手する。
 それがパンと脱脂粉乳による学校給食の推進であり、
 1956年からは
 アメリカ寄贈のキッチンカー(1956〜)による
 粉食(小麦中心の食事)推進キャンペーンに着手した。
 これは調理可能な設備を備えたキッチンカーで全国を巡回、
 農村、漁村で「栄養改善」の実践的な指導を行なうもので、
 毎回、最低ひとつは
 小麦を使ったメニューを入れるのが条件となっていた。
 「麦を食べると頭が良くなる」などの〝俗説〟も含め、
 こうしたキャンペーンにより日本人の食生活は変貌していく。
 それと同時に、
 大量の小麦輸入により日本の麦作は競争力を失った。
 日本の農業の基本形は夏には米を作り、
 冬に裏作として小麦を作る米麦二毛作である。
 その伝統的な米麦二毛作体系が崩れることによって、
 日本の農業は言わば片肺飛行を余儀なくされ、
 冬期間の出稼ぎが増加するなど農村崩壊の原因となっていく。

◎原子力発電は核兵器の〝副産物〟だった

 原子力発電の歴史は戦後の東西冷戦のなかで生まれた。
 核兵器を製造するためには
 濃縮ウランの核分裂でプルトニウムを作り出す必要がある。
 同じプルトニウムを作るなら、
 その過程で生み出されるエネルギーを利用した方が合理的だ。
 そうした軍事技術の副産物として
 「原子力の平和利用」(アイゼンハワー)が始まるのである。
 アメリカでは、原子力発電を推進するにあたって、
 万一事故が起きた場合のコストを試算した。
 その結果、被害金額があまりに膨大で、
 民間企業ではリスクを負いきれないことが判明。
 そこで企業の賠償責任を102億$に限定し、
 残りは政府保障をつけることで原発建設を進めることにした。
 (1957・プライス・アンダーソン法)。

◎原発導入にみるアメリカの影

 日本の原子力発電導入は
 アメリカによる商用原発の開発と併行して進んだ。
 アメリカからの濃縮ウランの貸与によって
 最初の研究用原子炉を建設(1955・日米原子力研究協定)、
 続いて濃縮ウランの供与(1958・日米動力協定)により
 商用原発の建設の道を歩み始める。
 その間の1956年、初代原子力委員会の委員長に就任、
 翌年に新設された科学技術庁の初代長官に就任するのが、
 読売新聞社主の正力松太郎である。
 数年前に公開されたアメリカ政府機密文書で、
 「CIAの協力者」として記録されていたのは記憶に新しい。
 こうしたアメリカとの密接な関係を持った人物によって、
 日本の原子力開発が領導されたことは注目に値する。
 アメリカは、
 1959年東京晴海で開催された
 国際見本市に原子炉の現物を展示するなどして、
 「原子力の平和利用」=日本への原発輸出のPRに務めた。
 最初の商用原発である日本原電・東海原発一号機こそ
 英国製のコルダーホール型だったが、
 続く日本原電・敦賀原発一号機はアメリカのGE社製。
 さらに関西電力・美浜原発一号機、
 東京電力・福島第一原発一号機もアメリカ製の軽水炉である。
 なお、敦賀原発は
 大阪万博の開会式が行われた1970年3月14日に運転を開始、
 万博会場に送電したことで知られる。
 美浜原発も1970年12月の営業運転を前に、
 8月8日万博会場に送電、会場内の電光掲示板に表示された。
 「人類の進歩と調和」のシンボル的な存在として、
 原発のイメージ作りが行われていたのは明らかである。

◎農業基本法と全国総合開発計画

 戦後の農政は
 「農地法農政」と「農基法農政」の相克として理解し得る。
 1952年に制定された農地法は、
 アメリカ占領軍による農地改革を受けたもので、
 地主=小作の関係が日本の封建主義の土台となったとして、
 「農地は自ら耕作するものが所有する」原則に則ったものだ。
 それに対して1962年の農業基本法は、
 農地法が前提としていた家族経営=小農主義を改め、
 大規模化・機械化による農業の生産性の向上を目的とした。
 それまでの米作中心の農業を改め、
 畜産・果樹への「選択的拡大」の方針を打ち出している。
 その手段として推進されたのが
 翌’62年に始まる農業構造改善事業で、
 これは大規模化に伴って生じる農村の余剰労働力を
 工業に吸収して経済成長を図るという意味で、
 同じ‘62年に地域格差の是正、
 工業の地方分散配置を目的として作られた
 全国総合開発計画とセットとなるものである。
 ‘69年には農業政策としての第二次構造改善事業、
 工業政策の新全国総合開発計画(新全総)が打ち出され、
 その目玉のひとつがむつ小川原開発計画であった。

 しかし、こうした農業構造改善+全国総合開発計画による
 地域振興政策は次のような要因により失敗する。

 1.粉食推進キャンペーンは
   消費者の米離れ=余剰米の発生を招き、
   1971年からは大規模化と相反する減反政策が実施される。
   また機械化大型経営のトップランナー・北海道酪農も
   1979年には生産調整に追い込まれる。
 2.農基法による機械化が稲作の省力化を進めた結果、
   現金収入を求めての出稼ぎが通年化し、
   農村はじいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんによる、
   いわゆる「三ちゃん農業」化した。
   農村の担い手不足、後継者不足が深刻になっていく。
 3.選択的拡大でシフトするはずの果樹・畜産は、
   アメリカによる貿易自由化攻勢にさらされることになる。
   減反が始まった1971年、日米貿易経済合同委員会で、
   アメリカは牛肉・オレンジの自由化を要求。 
   (1991年に自由化実施)
   こうした生産拡大と輸入自由化の悪循環は、
   下北半島でのビートの生産奨励(1962)が、
   翌年には粗糖の輸入自由化とぶつかり、
   製糖工場がわずか5年で閉鎖に追い込まれるなど、
   戦後史において際限なく繰り返されてきたように思える。
 4.農業基本法が制定された1961年、
   アメリカ穀物協会は東京事務所を開設した。
   前年創設された穀物協会の最初の海外拠点である。
   これはなかなか「偶然」とは考えにくい。
   以降、畜産への選択的拡大に伴い、
   アメリカからの輸入穀物飼料による畜産近代化が
   強力に推し進められることになる。
   そのなかで、従来は残飯で飼育していた豚も、
   牧草(粗飼料)中心に飼育していた乳牛も、
   輸入穀物飼料(濃厚飼料)への依存度を高めていく。
   MSAから始まる小麦と同じ道を歩んでいくのである。
 5.一方、新旧全国総合開発計画は、
   石油コンビナートや鉄鋼など
   重厚長大型産業を念頭に置いて構想されたもので、
   「公害の地方移出」として地元の激しい反対に晒される。
   ようやく土地の買収が終っても、
   今度はオイルショックの直撃を受け、
   産業構造の転換が迫られるなかで工場誘致は実現しない。
   下北半島の「むつ小川原開発計画」がその典型だが、
   北海道の苫東開発など、
   工場誘致に失敗した広大な空き地が日本中に広がった。

 仮に農基法農政=全国総合開発計画のセットが成功していれば、
 多くの人が地元で暮しながら工場労働者として働き、
 過密=過疎の問題が現在ほど深刻にならなかった可能性がある。
 しかし、前述したような理由により完全に失敗した結果、
 経済の地盤沈下と過疎化のなかで、
 地方の衰退は歯止めのかからないまま現在に至る。

 ※全国でほぼ唯一、農業の大型化・機械化が進んだ地域が、
  「農基法農政の優等生」といわれた北海道だが、
  規模拡大は不振農家の離農を前提とせざるを得ないため、
  人口減少により小学校が維持できなくなるなど、
  地域コミュニティの存続が危ぶまれる事態に立ち至っている。

◎原子力「安全神話」の誕生

 1961年、原子力発電の実用化に先立ち、
 「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)が成立した。
 この法律では、企業に有限責任を認めたアメリカと異なり、
 原発事故が起きた場合は企業が全額を賠償することとしている。
 アメリカで民間企業の手に負えないとされたものが、
 日本ではすべて民間企業の責任になったのは如何にも妙である。
 こうした判断の背景を推測すれば、
 事故が起きた場合の損失を試算することは
 とりもなおさず事故が「起き得る」ことを意味しており、
 被爆国であり、第五福竜丸被ばくの記憶も生々しい日本では、
 国民の厳しい反発が予想されたからではないか。
 まして国が賠償責任を負ってまで原子力を推進することは、
 日本では受け入れられないという判断が働いたと考えられる。
 そのため、
 「日本では過酷事故は起こらない」ことにせざるを得なかった。
 つまり、国民の反発を招かずに
 原子力発電を推進するための方便が、
 やがて官民ともにリスクを直視するのを避ける気風を生んだ。
 それが、いわゆる「安全神話」の成り立ちではないか?
 起きて困ることは「起こらない」ことにしてしまったのである。

(以下、下篇に続く)

  


     





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