誰がチャイニーズ・ブッキーを殺したか?

釧路で連日の雨に降りこめられ、庭仕事も出来ないので、昔のフィルム・ノワールを見ている。雨の日には、これが気分的にぴったりあう。1950年代のアメリカ映画が中心だが、
きのうはちょっと気分を変えて、ジョン・カサヴェテスの1976年作品「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」を観た。
20年くらい前になるだろうか、一度観ているのだがくっきりした印象は残っていない。
カサヴェテスはアメリカにおけるインディペンデンス、つまり非ハリウッド映画作家の雄とみなされる存在だったが、1989年に59歳で亡くなっている。ぼくはデビュー作の「アメリカの影」からもう一度、彼の作品を系統的に見直したいと考えている。

さて、「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」だが、簡潔なタイトルが終わると主人公のベン・ギャザラがタクシーを降り立ち、屋外に設えられたカフェのテーブルで画面には姿を現さない相手と会話を交わす。この長いファースト・カットでいきなり惹き込まれた。スクリーンから街の臭いが漂ってくるように思えたのである。作り込まれたセットではない、ホンモノの街の空気感。「空気を撮る」という意味ではカサヴェテスはいまなお傑出した映画作家の一人である。空気の湿度がまるで違うが、台湾の侯孝賢を思い出させるところがある。

そういえば。意図した、確信犯的な「説明不足」も侯孝賢と似ている。フィルム・ノワールでありながら、この映画では殺しのほとんどは直截には描かれない。ベン・ギャザラが脇腹を撃たれるシーンも、流してみていると見逃してしまいそうなさりげない描写だ。敢えてメリハリを外しているというか…。

そもそも、ベン・ギャザラは単なるクラブのオーナーなのだろうか?(以下、ネタバレあり)
既に足を洗ってはいるものの、プロとしての血腥い過去があったのではないか?標的の邸宅に忍び込んで一発でしとめ、駆け込んできた護衛二人を一発ずつで倒した手際は、ただのクラブのオーナーとは思えない。それはギャザラを殺すように命じられてはいるが、ぐだぐだ喋っているばかりで手を出せない見かけ倒しのティモシー・ケリー(見かけは怖いw)を、「素人だな」と見抜いた一言からも見て取れる。相手を「素人」と評するのは本人が「玄人」だからではないのか。そう考えると、マフィアが彼に莫大な借金を背負わせたのも、彼の棄てたはずの過去を知り、その腕を見込んで罠に嵌めたのではないかと思えてくる。マフィアともあろうものがずぶの素人に殺人を委嘱するのは如何にも危ない橋だし、
そう考えるとすべての辻褄が合うのだが…。
しかし、カサヴェテスは、プロットの要ともいうべき設定について何も語ろうとしない。
ひたすらにクラブのオーナーであり、演出家兼振付師、MCでもあるギャザラの仕事に対する思い入れを淡々と描写するのみだ。

ぼくの“深読み”が当たっているかどうかはわからない。というか、カサヴェテスはきっと「そんなこと、どうでもいい」と思っていたことだろう。語られない部分を観る側の想像力に委ねた映画作りは不親切といえば不親切で、観客としてはしんどくもあり、愉しくもあり…。「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」はそんな映画である。

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