アイヌモシリで「民族」について考える。


いつものようにアイヌモシリ(釧路)で休暇を過ごしている。
「アイヌモシリ」とは
アイヌ語で「人間の(静かな)大地」というほどの意味。
いまの北海道のことだと考えても
それほど大きな間違いではないだろうと思う。
アイヌモシリの軒下三寸借り受けていることもあって、
きょうは「民族」について書いてみたいと思う。
というのも、
日本国内でしか通用しない、
正確に言えば、日本国内ですら通用しない、
井の中の蛙の自分勝手な「民族」論を振りまわして
「アイヌ民族など存在しない」と主張する人が目立つからだ。
ネトウヨと飛ばれる人たち、
いまの安倍政権に親近感を持っている人たちに多いように思う。

ぼくは北海道で17年間勤務をしたし、
かみさんが異民族(日本国籍の中国人)ということもあって、
他の人より「民族」について考え、学ぶ機会が多かったと思う。
よく判ったのは、
「民族」について客観的に定義するのは難しいということだ。

日本人は長いあいだ
「単一民族国家」というフィクションを信奉してきた。
もちろんそれは
明治以降に政治的に形作られたイデオロギーなのだが、
その前提には日本人ならではの民族観があったように思う。
みんな似たようなモンゴロイドの顔立ちで、
代々狭い日本列島で日本語を話して生活してきたことが、
無意識のうちに
血筋や言葉の共通している人間集団が
「民族」だとの考えを植えつけたのではないか。
ところが世界に目を転じれば、
DNA的に共通点が多く言葉も同じでありながら
宗教が違うことを理由に「民族浄化」に走った人たちがいる。
一方で、ユダヤ人のように、
白人も黒人もいて(DNAがかなり異なる)、
世界各地に散らばって違う言語で生活してきた民族もいる。
もちろんユダヤ人やセルビア人、クロアチア人などは
「民族ではない」という議論も可能だが、
それではそうした人間集団を何と呼べばいいのか。
第一、ユダヤ人に
「あなたは何民族ですか?」と訊けば、
「ユダヤ民族です」という答えしか返ってこないだろう。
それを「民族ではない」と否定してしまえば、
世界にはどの「民族」にも属さないと考える人たちが
大量にいることになってしまう。
そうなれば「民族」という概念自体が意味を失う。

「民族」の定義を突き詰めれば
最後は「自分は何民族だと考えるか」という
アイデンティティの問題に行き着かざるを得ない。
アイデンティティの根拠は、
DNAだったり言語や文化、歴史や宗教だったり様々である。
もっとも、当然ながら、
「歴史的な客観性に裏打ちされたアイデンティティ」であって、
ぼく自身がいくらそう思ったところで、
アイヌ民族にも漢民族にもゲルマン民族にもなれっこない。
ぼくは自分では「出雲族」と名乗りたい衝動にかられるのだが、
あまり客観性がないので、
不本意ながら「大和民族」ということになるのだろう。

「民族」を客観性だけで定義づけるのが難しい以上、
「アイヌは民族ではない」という議論も成立する余地がある。
しかし、そう主張する人たちは、
自らが考える「民族」の定義を明らかにしたうえでなければ、
話にも何にもならないことは言うまでもない。
そして、その「民族の定義」は、
少なくとも世界の大多数の人たちを
包摂するものでなければならないはずである。
何をもって「民族」とするかの定義を明確にしないまま
「アイヌ民族はいない」などと主張する人たちは、
意図的なデマゴーグであるか、
さもなければ思考能力が欠落しているかのどちらかである。

そしてもうひとつ大切なことは、
アイヌが「民族」であるか否かに拘らず、
北海道の「先住民」であることは疑う余地がなく、
国際的にも認められているということである。

国際的に「先住民」の先住性は
近代国家成立の時点で判断することになっている。
だから、例えばユダヤ人は、
紀元以前にパレスチナの地で生活していたとしても
パレスチナの先住民とはみなされない。
近代国家成立以前から継続的にその地域に生活しており、
後から来た移住者・開拓者に圧迫されて
「非支配的な地位」に置かれた人たちが「先住民」である。
「近代国家」という西欧的な概念を
世界のあらゆる地域に当てはめるのは多少の無理があり、
いつをもって「近代国家成立」とするかは議論があり得るが、
日本で言えば明治政府の成立だとみるのが一般的だろう。
その時点でアイヌが北海道に先住していたのは間違いないし、
その後、「非支配的な地位」に置かれたことも疑いない。
明治32年に制定された
「北海道旧土人保護法」という法律があるが、
この「旧土人」という表現そのものが、
明治政府がアイヌの人たちを
いまでいう「先住民」とみなしていたことの雄弁な証左である。

ぼくは専門的に研究してきたわけではないので
多少記述に不正確なところがあったかもしれないが、
逆に言えば、
ぼくの独自の見解でもなんでもない、
言わば「常識」を説明したに過ぎないのである。
こうした「常識」を踏まえようとせず、
あるいは学ぼうという意識さえ持たないままに、
「アイヌ利権」だの「在日特権」だのいう妄想を振り回し、
あたかも日本人が
不当に権利を侵害された
「被害者」であるかのように言い立てるのが昨今の風潮だ。
この倒錯した論理が
ユダヤ人を迫害したナチスドイツの相似形であるのは、
「常識」を弁えた人たちにはいうまでもないことだろう。

常識のない人たちが
妄想としかいいようのないことを
大声でがなり立てているのを見るにつけ、
大和民族の劣化は甚だしい、と皮肉に言いたい気持ちになる。

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