きょう(正確に云えばきのう…6日)から、
2月7日放送のETV特集「あるダムの履歴書」(仮題)の編集に入る。
まず「ラッシュ」といって、撮ってきた映像をすべて見るところから始めるのだが、
今回は例外的に資料V(過去の映像記録)を最初に見ることにした。
ダム建設計画をめぐる40年にわたる紆余曲折の物語だけに、
過去に番組としてまとめられたものから見る方が全体像を把握しやすいと考えたためである。
今回のテーマであるダム計画(沙流川総合開発=二風谷ダム、平取ダム)が浮上したのは1970年前後、
新全国総合開発計画で脚光を浴びていた苫小牧東部工業基地に工業用水を供給するのが主な目的だった。
その当時、1970年代の映像…特に苫東計画の舞台となった勇払原野の映像記録はふんだんに残されている。
ところが、1980年代に入ると、
ダム計画に反対していた地元自治体が賛成に転じて二風谷ダムが着工される重要な時期にも関わらず、
まとまった映像記録がほとんど残っていない。
もちろん着工式などのニュース映像はあるにはあるが、
それは云わば事態の推移の表面を撫でただけのものであり、
当時の関係者がどういう思いでどのように行動したかというディテイルを欠いているため、
映像記録としての意味はほとんどないに等しい。
実は同じ経験をしたことがある。
数年前、青森県の六ケ所村をテーマにやはり「ETV特集」を作ったときのことである。
六ケ所村は苫東と同じように新全総で「むつ小川原大規模開発計画」が持ち上がったところで、
重化学工業基地建設構想がオイルショックで潰えると(それも苫東と同じだ)、
いつのまにか核燃料再処理工場など核燃サイクル基地計画にすり替わって建設が強行された。
ここでも、1970年代、むつ小川原開発の賛否に揺れた時期の映像記録が極めて豊富なのに対して、
1980年代になるとほとんど映像が残されていない。
1986年には核燃基地着工をめぐって反対派の漁船と海上保安庁の巡視船が海上でぶつかりあい、
「泊海戦」と呼ばれたほどの騒ぎとなるが、その前後の映像がNHKには全く残っていなかったのである。
あったのは遙か彼方で豆粒のように見える船をバックに岸壁で記者がリポートしている映像だけだった。
(ぼくはやむを得ず、当時反対派漁船に乗っていた人が撮影した家庭用ビデオの映像を番組で使った。)
ぼくは1970年代のNHKのドキュメンタリー番組の熱心な視聴者であり、
1979年からNHKで仕事を始めているのでこの間の事情は手に取るようにわかる。
1980年代は…「シマゲジ」と異名をとった島桂次さんが報道局長から会長へと成り上がっていった時代だ。
島さんは功罪相半ば…というか「罪」の方が大きかった…と思うが、
アメリカ式のニュース・ショーのスタイルを日本に導入した人である。
磯村尚徳さんがキャスターを務めた「ニュースセンター9時」の生みの親だ。
若い人にはピンとこないかと思うが、
日本のテレビ・ニュースのスタイルはこの番組をきっかけに大きく変わった。
アナウンサーが映像にあわせて原稿を読むというそれまでのスタイルから、
記者やアナウンサー、あるいはディレクターが現場でマイクを持ってリポートするかたちが主流となった。
取材した人間が自ら喋る「臨場感」が大切だと当時盛んに云われたが、
いまになってみれば、こうしたリポートに映像記録としての価値は皆無である。
残っているのはリポートしている人間の顔と「言葉」だけであり、
そこで何が起きていたかについては極めて間接的な情報でしかないからだ。
こうしたニュース・ショーの傍らで
従来のようなドキュメンタリーも作られていたのであれば問題はなかったのだが、
島さんの理想は「テレビは24時間ニュースであるべきだ」というもので、
ドキュメンタリーは次第にブラウン管から駆逐されていった。
1970年代…「ドキュメンタリーの時代」には、現場の当事者の生の声や表情が記録されたが、
1980年代には取材した人間の「喋り」だけが残ったというわけである。
いま考えると信じられないような気もするのだが、
1980年代も半ばから後半には「ドキュメンタリー」はほとんど禁句であり、
ドキュメンタリーを作ろうとすると「まだこんなことをやってるのか」と怒られたものである。
ドキュメンタリーを志す人間にとっては、まさに「冬の時代」であった。
沙流川総合開発のダム計画に話を戻せば、
1980年代の後半にダムへの土地売却を拒んだ地権者が二人おり、
ともにアイヌ民族の貝澤正さん、萱野茂さん(お二人ともすでに故人となった)だった。
それから10年間の映像記録は極めて豊富である。
ほとんどすべて1988年に札幌局に転勤したぼくが撮ったものである。
当初は全国放送にはならず専ら北海道のローカル放送だったが、
東京を追われたドキュメンタリー屋(?)として執念を燃やして撮り続けたものが、いま残っている。
こう書くと随分偉そうなことを云うと顰蹙を買いそうだが、
あの時ぼくが北海道にいなければ、この問題に関する映像記録はほとんど残っていなかったはずだ。
もちろんぼくが「オンリーワン」だったわけではないので、
ぼくと同じように考えたヤツがいた地方にはドキュメンタリー的な映像記録が残されることとなった。
いまは時代が変わって、かつてのような「ドキュメンタリー・冬の時代」ではない。
だが、「冬の時代」が長かったために、ドキュメンタリーを作れるヤツの絶対数が減ってしまった。
島さんの全盛期にドキュメンタリーを志して悔しい思いをした若手が、
いまはみんな五十の声を聞いているのである。
現場に残っているのはもう何人もいない。
そして、その下の世代が順調に育っているとは言い難い。
ドキュメンタリー作りに関しては組織としての空白期が長いのだから、これはやむを得ないことだろう。
ぼくは変わらない。
「冬の時代」も「夏の時代」もない。
自分のやりたいことをワガママにやり続けているだけだ。
これからも、この時代と、この時代に生きている人たちの記録を坦々と続けていくつもりだ。
ぼくがいま20年前の自分の仕事(映像記録)を核に番組を作ろうとしているように、
あと20年か30年経った後に、
いまぼくがやっている仕事を映像記録として“再発見”してくれる後輩が現れれば本望である。
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